60年前、広島・長崎の被爆者は世界で惨状を語った トルーマン元米大統領やオッペンハイマー博士とも面会
広島と長崎に原爆が投下されてから約20年後の1964年4~7月、被爆者25人がアメリカや当時のソ連、東西ドイツなど8カ国150都市を巡り、被爆の実態を証言した。 【写真】広島市は「対応が二重基準。偽善者と言わざるを得ない」 一方、長崎市は… パレスチナ
それから60年。今年、原爆の日に広島市と長崎市でそれぞれ開かれた平和式典では、「武力による国際問題解決」という考えの高まりへの懸念や、「核戦力の増強は加速し、危機的な事態に直面している」とのメッセージが地元から発せられた。核はいまも現実的な脅威であり続けている。 1964年の「広島・長崎世界平和巡礼」では、原爆投下を命じたトルーマン元米大統領や、「原爆の父」故ロバート・オッペンハイマー博士とも面会した。その際、何があったのか、一行は何を思ったのか。参加者の話や記録から、当時の様子を振り返りたい。(共同通信=下道佳織) ▽平和のかがり火を NPO法人「ワールド・フレンドシップ・センター」(広島市)によると、世界平和巡礼はアメリカ人平和活動家の故バーバラ・レイノルズ氏らが計画した。被爆者25人のほかに、通訳や記者など総勢約40人が参加した。1964年4月21日にハワイに入り、その後アメリカ本土へ。班で行動するなどし、カナダ、英国、フランス、東西ドイツ、ベルギー、旧ソ連と、8カ国150都市を訪問した。
レイノルズ氏は62年、被爆した女性と原爆で親を失った青年を連れ世界各地を回った。その際、「ヒロシマ」「ナガサキ」は知られているものの、原爆の惨状が全く知られていないことを痛感した。東西冷戦の真っ只中、63年11月21日に作成された平和巡礼の趣意書には、目的についてこう書いてある。 「私ども人間の想像力には限りがあり、原爆の一発、二発で事のすまない未来戦の人類共滅的惨禍をいかなる人も十分に想像することはできません。まして世界に名の知られた広島・長崎についてさえ、その被爆の実相は、やはり、その体験や現場証人のなまな話を聞かなければ現実が遠すぎて実感がわかないのです。これが遠隔操縦によって全線に核兵器が発射され押しボタンを押す人が被害の現場を見る必要のない現代戦の特徴でもあります」 「人類のこの全面的破局を救う道は、広島・長崎、そして日本全国に燃やされている平和のかがり火を、世界中の大衆に〝分け火〟して全世界の大衆に平和のかがり火を燃えあがらせること以外にありません」(原文ママ) 参加者を募集し、選考を通過した人には「サンカパス」と書かれた電報が64年1月に届いた。被爆者は広島から19人、長崎から6人の参加が決まった。