60年前、広島・長崎の被爆者は世界で惨状を語った トルーマン元米大統領やオッペンハイマー博士とも面会
▽涙ぼうだたる状態 一行はアメリカ滞在中、原爆投下を命じたトルーマン元大統領と面会した。たった数分間、被爆者の代表と言葉を交わした。その場にいたメンバーは、「被爆者を前に堂々としていた」と振り返る。原爆投下への謝罪は一切なかった。 原爆開発計画「マンハッタン計画」を率いた科学者の故オッペンハイマー氏と面会した被爆者もいた。オッペンハイマー氏はこれより前の1960年に来日したことがあったが、被爆地は訪れていなかった。巡礼では64年6月、広島の被爆者で理論物理学者の故庄野直美さんらが面会。そこに通訳として立ち会った故タイヒラー曜子さんが当時の様子を話した2015年の映像が、ワールド・フレンドシップ・センターに保管されている。 「(面会場所となった)研究所の部屋に入った段階でオッペンハイマー氏は涙ぼうだたる状態。『ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい』と謝るばかり」 広島大平和センターの川野徳幸センター長は「謝罪した記録があるのは驚きだ。開発責任者だった同氏の謝罪は、被爆者にとって救いになるだろう。ただ当時の彼にとって、誰への、何に対する謝罪だったかを考える必要がある」と述べた。ワールド・フレンドシップ・センターの立花志瑞雄理事長は「被爆者らの生きた証しとして、映像や文書を保存していきたい」としている。
▽優しさに触れ、語る決意 平和巡礼の参加者だった阿部静子さん(97)はいま、広島市の高齢者施設で暮らす。広島に原爆が投下された1945年8月6日、18歳だった阿部さんは爆心地から約1・5キロの屋外で被爆した。体の右側から熱線を浴び、顔は焼け、右腕の皮膚が爪までむけて垂れ下がった。逃げた先の軍需工場で横になっていると、被爆から3日目に父の呼ぶ声が聞こえた。「ここよ」と答えたが、顔が腫れ、風貌が変わった姿に「あんたが静子か?」と何度も確認された。 やけどはケロイドとなり、皮膚が盛り上がって指が変形し、口元はゆがんだ。右腕は約10センチ短くなった。皮膚の移植など、受けた手術は18回。顔は赤く、近所の心ない子どもたちに「赤鬼」とはやし立てられた。「子どもの授業参観では、美しいお母さんたちの間で肩身が狭くて…」。しゅうとめには離婚を迫られ、つらい日々を過ごした。平和巡礼が提唱された63年に、広島で被爆者のための「広島憩いの家」を管理・運営していた文筆家の故田辺耕一郎氏に参加を勧められ、一員に選ばれた。「私でいいんだろうか」と迷っていたが、「他の参加者は自動車一台ほどの働きをされるのなら、私は一本のネジでもいいから、精いっぱいやらせてもらおう」と覚悟を決めた。夫や子どもたちは温かく送り出してくれた。