82歳料理家<村上祥子>の原点。夫の社宅で始まった料理教室のきっかけは「おせちのお裾分け」
◆ひょんなことから料理の先生に 師走。 キッチンでおせち料理を作っていると、夫が「アンさんというアメリカ人女性と結婚した同僚に、『大晦日に家に来ませんか?タッパーを持ってくればおせち料理をお裾分けしますよ』と言っておいた」と申します。 夫・村上啓助(むらかみけいすけ)は、私に相談してから先方に返事をすることはまずありませんでした。 昭和ひと桁世代ですから、家飲みの時代です。 夫が独身のとき、上司宅で夕飯を食べさせてもらったのと同様に、独身寮にいる部下を連れて帰ります。 私がすべて飲み込んで対応してくれると信じていたのでしょう。 社宅生活では、それが奥さんの「甲斐性」というものでした。 その後、同じアパートに住むことになり、私の手料理を届けたり、アンさんに簡単な和食を教えたりと、おつきあいが始まりました。 ある日、アンさんは東京アメリカンクラブの集まりで、私のことを話したそうです。 すると、「その人に日本の家庭料理を教えてもらいたい!」という人が続出。 日本人と結婚したアメリカ人11人ドイツ人1人の計12人で「アンさんの料理教室」がスタートしました。 私が27歳のときでした。
◆衝撃を受けた「アメリカの料理本」 そのとき私が考えたのは、なじみのない異国の料理を習って亭主に作ってあげるには、再現性の高さが必須ということ。 料理教室の発起人である望月アンさんがアメリカから持参した『Encyclopedic Cookbook』(Culinary Arts Institute )(日本の辻調理師専門学校のような学校の料理本)を見せてもらいました。 さすがは多民族国家アメリカです。 どんなバックボーンの人でもわかるように、徹底してマニュアル化されたレシピ本でした。 私は大きな衝撃を受けました。 これを機に、私が作るレシピは材料も調味料も分量を明確にするように心がけています。 「吸い加減に味を調え……」といった当時の料理書とは全く違ったものになりました。 それが今日に至ります。 ひょんなことから私は料理の先生になりましたが、夫が東京から大分に転勤することになったのでアンさんの料理教室は1年でおしまい。 社宅ができるまでの急場しのぎに借りてもらった一軒家住まいの大分でも、独身寮住まいの部下に夕飯をふるまいます。 ある日、ある部下の方から「東京の本社で仲良くなった彼女と結婚することになったので料理を教えてくれませんか」と申し出が。 その方が友人を誘い一緒にレッスン。 ようやく社宅用アパートが完成し、そこへ転居。 噂が広まって、大分市内からの生徒さんも増えていきました。 最初は1人から始まった料理教室も、4年後に私が大分を去るときには90名に。 出発の際、大分駅のプラットホームに生徒さんたちが集まり見送ってくれました。 その後、さまざまな土地に引っ越しましたが、ずっと料理教室は続けてきました。 今も休むことなく、55年も教え続けています。