100人以上の戦災孤児を育てた「愛児の家」 多くの危機も乗り越えたママの愛情
戦後、全国の孤児12万人
1948年2月の「全国孤児一斉調査」(厚生省)によると、当時全国で孤児は12万3511人(沖縄県を除く)いた。戦災孤児(親が戦死、空襲などで死去)が2万8248人、引揚孤児(中国などから引き揚げてきた孤児)が1万1351人、棄迷児(親の作為・不作為によって捨てられたような状態)が2647人、一般孤児(保護者の病死など)が8万1266人とされ、東京などの主要な都市には、そんな子どもたちが大勢いた。彼らは「浮浪児」とも呼ばれた。 東京で孤児が増える最大の原因となった1945年3月10日の大空襲は、裕さんも中野の家から目にしていた。当時、白百合学園初等科6年生。それまで神奈川県の箱根に集団疎開していたが、卒業式は東京で行うこととなり、3月3日に東京に戻った。その1週間後の夜、異様な光景を東の空に見た。 「日が沈むときの夕焼けのように、空がオレンジ色になっていたのです。それもずっと広範囲にわたって。大変な火事で、2番目の姉と一緒に2階のベランダからびっくりしながら見ていました」 一晩で約10万5000人が亡くなり、約27万戸が焼失した。大切な親や家を失い、雨露をしのげる場所と食料を求めて、駅に集まる子が増えていった。
石綿家は戦前、本の表紙に貼る布を製造する事業を営んでおり、生活は比較的裕福だったという。父と母、末っ子の裕さんを含む3人の姉妹は、1940年に東神田から中野へ転居。中野の家は1階6部屋に2階4部屋という大きなつくりだった。貞代さんは戦前から大日本航空婦人会など婦人団体に所属し、傷痍軍人の慰問などの慈善活動をしていた。
終戦から1カ月後、男の子を引き取る
戦災孤児を引き取るようになったのは、終戦から1カ月あまりが経った9月24日の出来事がきっかけだった。この日、貞代さんの知人女性が一人の男の子を連れてきた。電車の中で保護したけど、面倒を見られないかという話だった。裕さんが振り返る。 「服に『岡本勝』(仮名)と書いてあって、おそらく小学1年生くらい。ただ、名札以外、何もわからない。本人に聞いても、口数が少なく、記憶も曖昧。行き場がなかったのね。母はすぐ引き取ることにした。それが最初の子でした」 岡本くんは、年長の姉2人と寝ることになったが、全身シラミだらけ。シラミなど知らなかった姉妹はとにかく驚き、大騒ぎとなった。髪の毛をはじめ、洋服の縫い目などにべったりと張りついているシラミをみんなで取っていった。