100人以上の戦災孤児を育てた「愛児の家」 多くの危機も乗り越えたママの愛情
いつしか上野では「銀シャリ(白米)が食べられるところがある」との噂が広がったらしく、自ら単身で愛児の家に来た子もいた。子どもの数はどんどん増え、1946年の暮れには約60人に。家では襖(ふすま)や障子を外して、対応した。
名前を明かさない子どもたち
そうして子どもたちを迎える一方、愛児の家でほとんどやっていないこともあった。子どもたちがどこの生まれで、なぜ路上生活をすることになったのかという聞き取りだ。児童票の記載が定められた児童福祉法が施行された1948年1月以降は聞くようになったが、それまで貞代さんは積極的には聞かないようにしていた。裕さんは言う。 「そもそも、子どもたち自身に言いたくない感じがありましたね。偽名を言う子も複数いました。自分で考えたり、電信柱に書いてあった名前を使ったりして。外で暮らしているうちに盗みなど悪いこともしなくてはいけなかったので、隠したかったんだと思います。高校に入る前くらいに本当の名前を打ち明けた子もいます」
子どもの中には家族から捜索願が出され、数年後に家族の元へ帰っていった子もいた。その一方で、実家の存在がわかっても帰ろうとしない子もいた。警察や自治体による「狩り込み」で捕まり、収容された児童施設から脱走してきた子たちもいた。本名を明かすと、そうした施設にまた戻されることを恐れていた可能性もある。 「ただし、名前も生年月日もわからなかった子には、母が区にかけあって、戸籍をつくった。新たに戸籍をつくられた子は4、5人はいたと思います」 終戦から1年が経つ頃には食糧事情は一層厳しくなり、余裕のあった石綿家も借金が日増しに増え、やりくりが難しくなっていった。そんななか、思わぬ人が救いの手を差し伸べる。GHQ(連合国軍総司令部)とメディア、ひいては米国の人たちだ。
米国の人たちの継続的な支援
1946年初夏、GHQ民間情報教育局の中尉が愛児の家を視察に訪れた。さらに8月、米軍の準機関紙である星条旗新聞の日系2世の記者が取材に訪れ、貞代さんの戦前からの活動を報じた。すると、秋には英ロンドン・タイムズの女性記者らが取材に訪れ、愛児の家のことを報じた。次第に米国本土や駐留する進駐軍から援助物資が送られるようになった。 12月にはYWCAの女性が愛児の家を訪れ、巨大なクリスマスツリーを飾り、子どもたちにたくさんのプレゼントを贈った。ある男の子は作文にこう残している。 <毎日毎日楽しい生活をおくっていた。僕は幸福であった。まるで天国のようである。やがて十二月がやってきた。クリスマスにはYWCAの人が来て一人一人にプレゼントを下さった。お菓子だの洋服だの持ちきれないほどの沢山の物、僕は大変うれしかった>