100人以上の戦災孤児を育てた「愛児の家」 多くの危機も乗り越えたママの愛情
岡本くんを契機に、貞代さんは活動を始めた。大日本航空婦人会の縁で知遇を得ていた、昭和天皇の妻・香淳皇后の従姉妹、広橋規子氏を理事長に仰ぎ、戦災孤児救護婦人同志会を11月に設立。公的な形で戦災孤児を救う活動に取り組みだした。 <上野地下道にきますと、驚いたことには地下道の両側は浮浪者がさまざまの恰好して、およそ五百人ぐらいいました。僕達は地下道で一夜を過ごしました。そのときの寒さは今でもはっきりと覚えています。僕たちは朝から靴みがきをやるところをさがし求めました>(愛児の家に暮らしていた男の子の作文) 裕さんも当時の上野駅周辺の光景は忘れられないと言う。現在のアメ横側に近い不忍口から、地下鉄銀座線の改札につながる地下へのスロープ。そこに大勢の人が寝ていた。 「とてもじゃないけど、中に入っていける状態じゃなかった。段ボールさえない時代です。焼け焦げた布団があればいいほうで、新聞紙に身を包む人が多かった。服も汚れているから、真っ黒だし、大人か子どもかもわからない。衝撃的な光景でした」
一方、中央口では汽車に並ぶ人たちのそばに、物乞いをする子どもがたくさんいた。 「『しっ』と追い払われ、邪魔だと言われても、空き缶を持った手を伸ばしてくる。そして、駅に出入りする大人の間をちょこちょこと歩いていた。多くは私より幼い子でした」 そんな「駅の子」たちに貞代さんが声をかけだしたのは、1946年の年明けのこと。東京都民生局の職員と貞代さんの友人の発案で、石綿家の名称を「愛児の家」と呼ぶことになった。
「銀シャリが食べられるところ」
上野に何度か出かけ、2月半ばには預かった子どもは15、16人になった。 「家に着くと、まず風呂で体を洗い、きれいにしてから、食事をしっかり食べさせる。子どもたちはみんな『おいしい!』と喜んでいました。母は毎朝4時半に起きて、朝ごはんをつくっていました」
愛児の家にルールはなく、外出も自由。落ち着かない子どもの中には、また上野に戻ってしまう子もいた。当時の鉄道は子どもであれば、「ほぼ自由に乗れる」状態。そうした子は数日上野で過ごすと、何食わぬ顔で戻ってきた。 問題もしばしば起きた。よくあったのが家財の持ち出しだ。置物や時計などを勝手に闇市で売ってしまう。痛かったのは、1946年2月の新円切り替え直後、その新円5000円ほどをある姉弟に持ち逃げされたことだ。当時の国家公務員の大卒初任給が540円。現在のお金で約200万円近くを失った。 「このときはさすがに母も困り果てていました。まだ誰もが食うや食わずの時期でしたから、周囲に頭を下げて回っても、なかなかお金も借りられず、着物などを一緒に売りに行ったりしました」 米や野菜などの食料は、終戦から1年ほどは新潟県の赤倉にある別荘から調達できた。貞代さんや裕さんらが信越本線に乗り、取りに行っていたのだ。ただし、当時米は配給制で、闇米を見つかるわけにはいかなかった。あるとき、すでに炊いたおにぎりなら見つかっても許されるのではないかと思い、貞代さんや裕さんは赤倉でおにぎりを握ってから帰途に就いた。すると大宮駅で思いがけないことが起こる。 「待ちきれない子どもたちが、勝手に大宮駅まで迎えに押しかけていたんです。上野をうろついていた彼らは鉄道のことは大人より詳しく、自由自在に乗り降りしていた。そこで『もうそれならここで食べちゃいましょう!』と大宮駅の一角でおにぎりをみんなで食べました」