仕事はつらくて当たり前?仕事の言葉に隠された当たり前という呪いを考える
「当たり前」の言葉を考える
その問いを考える前、少し遠回りをしますね。 個人的な話になりますが、私は小学生時代から今まで18年間、直接打撃制を信条とする「極真空手」という武道を続けています。試合に出るとなると稽古はめちゃくちゃきついですし、実際に目の前の相手と思い切り突きや蹴りをお互いの身体にぶつけあうので当然痛いです。ぼこぼこにやられたあとの帰り道は、「なんでこんなことをやっているんだろう?」と嘆かずにはいられません。 「仕事がつらくて当たり前」ということで思い出すのは、そんな極真空手での私の恩師がきつい稽古のときほど、声をかけてくださった「当たり前、当たり前」という言葉です。 きつい練習をしていると「なんでこんなきつい目にあっているんだ!もうやめたい!」と毎秒毎秒思います。でも落ち着いてよく考えてみれば、だれに強制されるでもなく自分で選んで空手をしていて、試合で勝ちたいと思うから厳しい練習をしているわけで、「試合に勝ちたい、強くなりたいならこれくらいの厳しい練習をするのは<当たり前>」です。 恩師の言葉を通して「当たり前、当たり前」と自分に言い聞かせることは、弱音を吐きそうなときに、これは自分で決めたことなんだ、とぐっとこらえて、もうひと頑張りする「希望」の言葉になってくれました。 この私の個人的な経験を仕事に転じて考えてみます。 それは、仕事がうまく回っていて、人生が充実していたり、あるいは必ず成し遂げたい目標があってそれに向けて仕事を懸命にがんばっているとき、<当たり前>は、「そうだ。だからこの苦境も乗り越えて、成果を出そう!」というように強い意志として前へ前へと自分自身を推し進める推進力になるかもしれません。 ですが、他方で、「仕事がつらいのは当たり前」という言葉は、仕事に疲れ、悩み、涙するときには、「ああ、なのになんで自分はがんばれないダメな人間なんだろう。みんなはうまくやれているのに」と、あなたを苦しめる「呪い」の言葉としてでもあります。 なぜ仕事をめぐる「当たり前」は希望の言葉にも、呪いの言葉にもなってしまうのでしょうか。