仕事はつらくて当たり前?仕事の言葉に隠された当たり前という呪いを考える
あなたの言う「仕事」はどんな意味を持っているのか
なぜ仕事をめぐる「当たり前」は希望の言葉にも、呪いの言葉にもなってしまうのでしょうか。その答えを探る上で一つのヒントとなるのは、仕事には様々な「意味的広がり」がある、という指摘ではないでしょうか。 村山昇著『働き方の哲学 360度の視点で仕事を考える』(ディスカヴァー・トゥエンティワン, 2018.)によれば、日本語で、仕事や働く、というときには、本当に様々な意味合いがそこに含まれます。 たとえば、肉体的に骨の折れる仕事=労役(labor)、天職(calling)、任される業務(job)、任務(task)、生業(occupation)などの意味が重なり合った事象を私たちはまとめて「仕事」と呼んでいます。 さきほどの私の空手の例は、あえて「仕事」という言葉で表現するとしても、それは自分にとっての「使命 calling」のようなものとしての、長期的で自らがやりがいをもってやるタイプの「仕事」です。だから、それが少々つらくても、自分の使命とするハードルの高い課題なのだから、少々つらいのは当たり前なのだ、と思うことは希望の言葉として背中を押してくれます。 しかし、仕事を誰かに与えられたものとして仕方なくやるような「労役(Labor)」としか捉えることができない人にとっては、「労役」という言葉の意味からしても、ある程度つらいのは「当たり前」です。 ただし、ここでの当たり前は、(SNSで毎週日曜日になると見かける月曜日が来るのを恐れる言葉の数々を見ればわかるように)むしろ毎日毎日やってくるtaskでありlaborでもある仕事がつらいものでしかあり得ない、という絶望の言葉です。
自分で自分に“当たり前”という呪いをかけてはいないか
「仕事は少々つらくて当たり前」という言葉が呪いの言葉として響くのは、その言葉をかける人とかけられる人のあいだで、仕事をどういうものとしてとらえるのか、にズレがあるときではないでしょうか。 仕事を自分にとっての天職や使命のようなものとして希望をもって考えている人にとっては、自分を勇気づける言葉である「当たり前」を他人にも同じように向けるかもしれません。でも、その向けられた人にとって仕事は毎日毎日逃げようとしてもやってくる「労役」としてしかとらえられていないとしたらどうでしょうか。 このズレの根底にあるのは、自分と同じ仕事内容をしている人だから、自分と同じ意識で仕事に取り組んでいるはずだ、という思い込みです。先ほど言及した『働き方の哲学』でも述べられていることですが、毎日淡々とレンガを積むという仕事をしている人がいたとしても、それを作業や稼業(単に日々の生活のため)としてとらえるか、使命(後世に残る大聖堂建設のため)としてとらえるかによって、事態は全く異なるからです。 同じようなズレによる呪いは、苦しい局面を乗り切るために「仕事は少々つらいのが当たり前」と独り言のようにつぶやくことによっても起きると思います。 一方では今の仕事の先に自分の夢や志を見ていて、それに向けての仕事(=使命)なんだと思いたい自分がいる、でも他方でどうしても目の前の日々の仕事内容についてはつらさのほうがどうしても勝ってしまっている(=労役)。そんな自分に「仕事は少々つらいのが当たり前」と言い聞かせるのは、自分で自分に呪いをかけることになりかねません。