「不祥事多発」や「ルッキズムで時代錯誤」と批判も…それでも大学の学祭から「ミスキャンパス」がなくならない理由
最近はスポンサーも離れていっており、大人のビジネスだったら撤退の時期かもしれないが、基本的には学生の“文化祭”であるという性質上、それもない。 たとえば、2006年度のミス慶応コンテストで、後にテレビ朝日アナウンサーとなった竹内由恵がグランプリを受賞したときには、「賞品がBMW」といった光景も見られたが、最近はそのようなバブリーな光景も減少傾向にある。 ネットと融合することによって、一時期はその本来の価値以上に肥大化してしまっていたミスキャンパスコンテストが、本来あるべき規模に戻ってきたと言ってもいいだろう。
■それでも「ミスキャン」を開催する理由 では利益が目的ではなくなったときに、主催する彼らや、出場する彼女たちを駆り立てるものは何なのだろうか? 候補者の視点で言えば、飽和状態がゆえにネット上でも“見つかる”ことが難しくなっている現代において、出場するだけである程度のフォロワー数がつく、といううまみはまだ残っていると言ってもいいだろう。 女子アナの採用試験においても、ファイナリストに選ばれる程度には他者も認めるルックスであるという信用性がつくことで落とされづらくなる、という効用は健在だ。
主催する広告研究会の学生も、スポンサーの対応などをして大人慣れしているせいか、就職活動でうまくいくことが多い。 だが、さらに本質的なことを言えば、ミスキャンパスコンテストがなくならないのは、出場する側も、選ぶ側も、人に優劣をつけることを渇望しているからということなのではないだろうか。 ■偏差値の高い大学ほど盛り上がる 「多様性」という言葉に象徴されるように、それぞれの違いを認めようとする社会である一方、あらゆる場面で「平等」も叫ばれる。
平等という“正しさ”の前では、集団の中で誰かが選ばれることは、時に悪とされてしまう。その選抜に正当な理由があっても、差がつくこと自体に対して異を唱える声は消えない。 それはもちろん一定数の人には生きやすい社会だろうが、受験競争に勝ち抜き、“上”を目指している人たちにとっては、やりがいを奪われたような感覚になるだろう。 ミスキャンパスコンテストは、実は、偏差値の高い大学ほど、コンテスト自体の競争が激しく、盛り上がる傾向にある。美しさと偏差値は別の基準であるにもかかわらず、不思議と偏差値とコンテストの盛り上がりは比例する。候補者と接していても、勝つための熱量は偏差値が高い大学ほど大きいのを感じる。
大学受験という選抜を経て、偏差値的には同質の集団の中に身を置くことになった彼女たちは、今度はその集団の中において、偏差値以外の基準でさらに高みを目指したくなる。選ぶ側も、そうした者たちを審査することで“上”に立ちたくなる。 この社会から競争や選抜がなくならない限り、ミスキャンパスコンテストは開催され続けるのだろう。
霜田 明寛 :ライター/「チェリー」編集長