ガンバ大阪史上最高! “化け物”となった下部組織出身選手6人。日本を代表する優れた才能たち
MF:二川孝広(ふたがわ・たかひろ) 生年月日:1980年6月27日 在籍期間:1999年1月~2019年2月 クラブ通算成績:581試合66ゴール63アシスト ガンバ大阪ユース出身の二川孝広は高校3年次のクラブユース選手権で優勝に貢献する活躍を見せ、1999年にトップチームへと昇格した。翌年から出場機会を得始めると、2002年にG大阪の監督に就任した西野朗監督のもと、主力として重宝され続けた。 2003年からは背番号10を背負い、遠藤保仁や橋本英郎と絶対的な中盤を構成した。技術に優れ、間隙を縫う正確無比なラストパスでマグノ・アウベス、ルーカスといったG大阪が誇るストライカーのゴールをお膳立てし続けた。ゴールを決めても感情をほとんど出さない、ポーカーフェイスな一面もファンから人気を博した要因のひとつだ。 2005年のJ1優勝、2008年のAFCチャンピオンズリーグ制覇など一時代を築いた二川は、2012年のJ2降格の際にも残留を決断。1年でのJ1昇格、その後2014シーズンの国内三冠を経験し、2019年に23年間在籍したクラブを退団した。公式戦出場数は遠藤に次ぐクラブ史上2番目の581試合を数えている。そんな青黒の10番は、2023年に現役引退を発表。二川のようにJ2に降格してもクラブに在籍し続ける主力選手は、海外移籍が活発になった今日にはもう見られないかもしれない。
MF:橋本英郎(はしもと・ひでお) 生年月日:1979年5月21日 在籍期間:1998年1月~2012年1月 クラブ通算成績:401試合22ゴール10アシスト 橋本英郎はジュニアユースからガンバ大阪に所属していた。同期には稲本潤一や新井場徹といった名選手がいたが、ユース時代からトップチームに出場していた2人とは異なり、橋本は練習生契約でトップチームに加入していた。出場数も決して多くはなく、レギュラーを掴むまで長い道のりを歩んだ苦労人だ。 しかし、2001年に稲本が海外に挑戦し、中盤に空きポジションが生まれると徐々に出場機会を得るようになってくる。足元の技術や身体能力が特段優れている選手ではなかったが、そのポジショニングの良さを生かしたチームの穴や自らの弱点を埋めるプレースタイルで、ダブルボランチの一角を担うようになった。ときにはSBをこなすなど、ユーティリティー性もいかんなく発揮。チームの痒い所に手が届く万能型の選手として通算401試合に出場し、西野朗政権下でリーグカップや天皇杯など数々のタイトルを獲得した。 橋本は2012年にヴィッセル神戸へと移籍し、セレッソ大阪などを経て2023年にユニフォームを脱ぐ決断を下す。昨年12月に行われた引退試合には同期の稲本や播戸竜二、さらには2005年のJ1優勝メンバーであるフェルナンジーニョら助っ人外国人まで駆けつけた。青黒の名脇役が、誰もが認める正真正銘のレジェンドだったことがわかる。