〈東日本大震災から13年〉「元気でないよ」原発事故で飼っていた牛を殺処分した福島県浪江町の酪農家一家は今。別の街に行けば「放射能が来た」と陰口を言われたことも
「放射能がきた」と陰口を言われることも
福島第一原発事故があった当時、石井さん一家は8人で暮らしていた。石井さんの両親、それに長男夫婦と孫2人だ。震災の日、偶然にも、長男夫婦と孫は新潟におり、そのまま新潟で避難生活を続けることになった。 浪江町の石井さん一家も、すぐに避難するよう指示が出ていたが、隆広さんの両親はこのまま自宅で暮らしたい、避難しなくてもいい、とかたくなに逃げることを拒否した。そのとき隆広さんは、こう声を荒げたという。 「何言ってんだ、自分の命を守るのは当たり前だべ」 こうした隆広さんの説得もあり、両親は福島県内の温泉施設へ一時的に避難。その後は仮設住宅に入ることになった。 一方、隆広さんはしばらく自宅に残り牛の世話を続けたが、県は、福島第一原発から20キロ圏の警戒区域にあった浪江町の酪農家に対して、同意のうえで家畜を殺処分にするとの方針を示した。トラックで運ばれていく牛たちを、隆広さんはじっと見つめた。悲しそうな目をした牛の姿は今も頭から離れない。 生きがいでもあり、生活のすべてだった牛が牛舎からいなくなると、隆広さんは仮設住宅に入った。避難生活が始まったのである。一方、妻の絹江さんは浪江町から車で約1時間半かかる本宮市のボロボロになったアパートで暮らすことになった。 絹江さんがいう。 「仮設住宅は町民のためのものですから、私たち町の職員が入ることはできませんでした。そこで、雇用促進住宅を自分で見つけてきて、何とかお願いして知人の看護師さんと、そこで暮らすようになりました」 こうして石井さん一家は、離ればなれで暮らすことを余儀なくされた。 「お父さんは食事の用意も自分でできないし、家事もまったくやらない人なんです。当時、三男が独身でしたので、お父さんと一緒に仮設住宅で暮らし、身の回りの世話をしていました」(絹江さん) 震災後、絹江さんは配置換えとなり、町が運営する仮設の診療所で事務員として働くことになった。 「当時は、避難している町民が別の街の病院に行くと、『放射能がきた』と陰口を言われることもありました。何としても浪江に診療所を再開させなければということで、仮設の診療所を町がつくったんです」(同) その診療所に従事する医師を見つけてきたり、レントゲンの機械を導入したりと、絹江さんは町の職員として病院での仕事に奔走した。 そんな生活がしばらく続き、やっと夫婦が一緒に暮らせるようになったのは、約2年半後のことだった。しかし、購入した福島市内に建つ一軒家も、石井さん夫婦にとって住みやすい場所にはならなかった。 (後編に続く) 取材・文/甚野博則 集英社オンライン編集部ニュース班 撮影/Soichiro Koriyama
【関連記事】
- 【後編】〈東日本大震災から13年〉「もう話すな。俺も悲しくなっから」妻は震災体験を伝える紙芝居を上演し、山田洋次監督も見学に
- 〈写真で振り返る東日本大震災〉「牛、殺してから行くっぺ」原発事故により乳牛を置いていかざるを得なかった酪農家夫婦
- 〈写真で振り返る東日本大震災〉フィリピンパブで働く女性たちが直面した震災…スナック街は瓦礫と化し、日当1万円のゴミ分別作業で生計を立てる生活「最近は中国人の方がフィリピン人よりたくさんいます」
- 【東日本大震災と災害関連死】死者、行方不明者の20%を占める「災害関連死」をゼロにするために必要なこと
- 「今すぐ逃げること!」NHKの“絶叫アナ”こと山内泉アナが貫いた「言葉で命を守る」姿勢