〈東日本大震災から13年〉「元気でないよ」原発事故で飼っていた牛を殺処分した福島県浪江町の酪農家一家は今。別の街に行けば「放射能が来た」と陰口を言われたことも
夢の酪農業をスタート。一時は約25頭の牛を飼育
お宅に入ると玄関の正面には、2階へ続く大きな階段が見えた。その両脇に居室があるが、右側の和室に隆広さんの姿はあった。起き上がった隆広さんと挨拶を交わし、部屋の中を見回してみると、趣味である自動車の雑誌が山のように積まれていることに気づいた。 郡山氏が「お久しぶりですね。元気でしたか?」と声をかけると、隆広さんは、「元気でないよ」とわずかに笑みを浮かべた。 テレビでは大音量で競馬中継が流れている。だが、番組を見ている様子はない。浪江町に住んでいた頃は馬券を買いに福島市内までよく行ってていたそうだが、実際に市内に住んでみると、隆広さんは「もう(馬券を)買いに行く気にもなんねえな」と漏らした。 時々、市内まで酒を飲みに出ることも楽しみのひとつだったというが、やはり今はそういう気にもなれないと話す。そんな彼を見ていると、何かを見失ってしまったときの喪失感に心が支配されているかのように思えた。 浪江町で育った隆広さんは小高町(現・南相馬市)の高校で畜産を学んだ。父親は他県に出稼ぎに出ることが多く、測量の仕事などをしていたという。隆広さんは高校を卒業すると一時期はトラック運転手をして生計を立てた。その後、自宅で1、2頭の牛を飼い、ついに夢だった酪農業を始める。 絹江さんは、地元の高校の農業科で学び、卒業後は浪江町の職員となった。そんなふたりが出会ったのは、地元の青年会だった。もともと面識はなかったが、青年会で親交を深め交際するようになったという。 「最初は、酪農の家に嫁ぐことを両親が反対していましてね。しばらくはお互いの親を説得する期間をつくって、それから結婚したんです」(絹江さん) 結婚後の生活は順調だった。3人の子どもに恵まれ、隆広さんが手掛ける酪農も全盛期には25、6頭の牛を飼うまでに規模を拡大していった。 ところが――。2011年3月11日、石井さん夫婦の人生は一変する。
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