ススキノ事件、宮﨑勤と精神医学の無力さ 香山リカ
おそらく、ススキノの事件の娘も、同じ結果になると思われる。前半でも述べたように、鑑定結果は「統合失調症」「解離性同一性障害」「境界性(あるいは自己愛性)パーソナリティー障害」のいずれかであろうが、「その要素が強いが確定診断には至らなかった」といった但し書きがつくのではないか。責任能力の有無に関しては「若干減弱」程度にとどまるであろう。そして繰り返しになるが、そうやって既存の診断基準にあてはめて何らかの診断名をつけることが、この娘やその家族、あるいは犯行に関しての何らかの理解につながるかといえば、それはまったくないに違いない。この事件について語るべきことがあるとするならば、それは「現代の閉塞した家族の状況」や「『生まれてこなければよかった』といった反出生主義的な自己不信」などであって、それは精神医学の領域の問題というよりは、社会論や哲学、さらにいえば文学の領域の問題になってしまうからだ。たとえば、コスパ、タイパのいい人だけが勝ち組として評価されるという新自由主義的な価値観への怒りも、この娘の中には根深くあったのかもしれない。 この「破格の現実を前にしたときの精神医学の無力さ」は、父親は精神科医であったにもかかわらず、我が娘を理解することができず、その逸脱や暴走を手をこまねいて見ているしかなかった、ということに象徴的に現れていると思う。精神科医なのになすすべがなかったのではなくて、精神科医だからこそ何もできなかったのである。 もちろんこれはただの憶測で、精神鑑定であっさり診断がつき、犯行の動機などもそれによって解明されるのかもしれない。もちろん、精神医学の片隅にいる者として、私はむしろそれを願っている。“答え合わせ”はまたいずれここで書きたいと思っている。