パリ・パラ閉幕:偏見とバイアスからの解放 「障害者のスポーツ」を超えて
東京:コロナの中、進んだ選手強化
新型コロナウイルスの影響で2021年開催となった東京大会は、原則として無観客。大会前のチケット販売は順調だったので、コロナがなければ東京大会もパラスポーツの魅力をたくさんの人に伝える機会になったはずだ。それが実現できなかったことは残念だった。 だが、日本としては選手の強化が進んだ。19年に五輪選手用のナショナルトレーニングセンター隣地にパラアスリートが使えるイースト棟が完成。選手の発掘、コーチの育成も積極的に行った。 国や企業から支援を受ける選手が増え、選手のプロ化、セミプロ化が進んだ。それが、東京大会の金メダル13個、パリではそれを超える金メダル14個につながった。
ビッグイベントに成長
既にパラリンピックは、五輪、サッカーワールドカップの規模に次ぐ大きな国際スポーツイベントに発展した。私がパラリンピックを撮影し始めた時には想像できなかったことだ。 パリ・パラの競技の合間には観客が「オー・シャンゼリゼ」を歌っていた。観戦を純粋に楽しむ様子からは、少なくともスタジアムに来ている人たちは、五輪とパラリンピックの違いなど既に感じなくなったのでは、と感じるほどだった。 パリ・パラは、パラリンピックが新しい段階に入ったことを思わせる大会だったと結論付けられる。障害者だからといって区別せず、五輪と同じように競技を楽しむ。今後、この流れは加速することはあっても、元に戻ることはないだろう。
どう根付かせ、広げるか
成功したパリ・パラの陰で、課題も少なくない。 パラスポーツは車いすや義足など、高価な道具が必要な場合が多い。パリ大会には、難民選手団を含め史上最多となる168の国と地域が参加したが、発展途上国の選手は少なく、パラスポーツの広がりは十分ではない。 パリの街は、地下鉄や歩道などのバリアフリー化が遅く、車いすなどで移動するには困難が伴う。パラリンピック期間中も、この不便さは不評だった。パラ開幕に先立つ8月末、パリの地下鉄を2~3兆円かけて全線バリアフリー化する構想が発表された。時期は見通せていないが、パラリンピックがあったからこその動きだと受け止めたい。 日本ではエリート選手への支援は手厚くなったが、地域や学校の中での広がりは不十分といえるだろう。車いす競技の選手は、今でも体育館の使用を断られることがある。 障害者であっても、誰でもスポーツを楽しめる環境をつくること。スポーツを通じて障害者が社会に参加できるようにすること。それを実現するのがパラリンピックの原初的な意義だ。メダルの数を増やすこととは別に、やらなければいけないこと、変えなければならないことは膨大だ。この危機感は、メダルを獲得したアスリートたちも記者会見などで訴えていた。