パリ・パラ閉幕:偏見とバイアスからの解放 「障害者のスポーツ」を超えて
シドニー:裏切られた懸念
過去の大会の私自身の体験を振り返ってみると、それがパリに至るパラリンピックの歩みをたどったものだったこともわかる。 初めてのパラリンピック体験は24年前のシドニーだった。五輪の撮影の仕事の後、ある新聞社から、急に撮影取材を依頼されたのがきっかけだ。 シドニーで私は、会場の観客が熱心に選手を応援している姿に驚かされた。 その理由はシンプルだ。私が障害者に対して、ある種の感覚を持っていたからだった。 障害者とはかわいそうな人たち。誰かが手助けをしてあげないといけない。そういう人を見るのは失礼な行為で、カメラを向けることなんてとんでもない。そう思っていた。 だがその心配は良い意味で裏切られた。 開会式の行進では、両足のない選手が片腕で逆立ちして手を振っていた。そのほかの選手も、パラリンピックに出場できたことを誇りに思っていることが伝わってきた。障害者のスポーツは、悲愴感が漂っているに違いないと思っていたのに、パラリンピックという祝祭空間の中では、健常者と障害者という違いは消え去っていた。 義足で跳ぶ人、目が見えないのに走る人、車いすバスケや車いすラグビーでは車いす同士がぶつかって火花が飛んでいた。選手の誰もが格好良かった。 街中にはパラアスリートの広告が張られ、陸上競技場会場では多くの観客が声援を送っていた。当時のこの驚きは、現場にいた人間しか分からないものだった。 シドニー大会のころ、障害者がスポーツをすることに対し、今とは異なる感覚を抱いていたのは、私だけではなかったと思う。パラリンピックは日本の新聞のスポーツ面にはほとんど載らなかった。練習は「トレーニング」ではなくて「リハビリテーションの延長」だった。 シドニー大会の翌年、パラリンピックで撮りためたものを集めた写真展「魂の瞬間」を東京で開いた。たくさんの人が会場に来てくれた一方で、「かわいそう」と感想を漏らす人もいた。それが当時の限界だった。 パリ・パラを取材する中で、当時の障害者をめぐる状況や感覚を思うと、隔世の感を禁じ得ない。パリでは障害者に対する古い価値観を感じることはほとんど無く、都市全体がパラリンピックを楽しむ雰囲気に覆われていたからだ。