パリ・パラ閉幕:偏見とバイアスからの解放 「障害者のスポーツ」を超えて
北京:「パラの五輪化」加速
パラリンピックの大きな変化を感じたのは2008年の北京大会だった。 会場はどこも満席。動員があったのかもしれないが、観客たちの熱狂に偽りはなかった。満員の観客がアスリートを鼓舞するスタジアムの様子は、従来の大会とは全く異なる雰囲気に包まれていた。会場に来れば、パラスポーツの面白さがわかる。それを実践していた。 01年の国際オリンピック委員会(IOC)とIPCの間での合意書に基づき、北京からは五輪組織委がIPCと共同で大会を開催し、組織も統合した。五輪とパラリンピックを可能な限り同等に扱うことになり、パラリンピックは五輪側から財政支援を受け、「パラリンピックの五輪化」が加速していった。 その一体化は、パリでいっそう進んだ。パラアスリートの強化は進み、身に付ける道具も進化。競技性がさらに増した。エンブレムは五輪とパラが共通で、選手やスタッフ、メディアなどのIDカードには、五輪マークとパラリンピックのマーク「スリーアギトス」が並んで印刷された。カメラマン用ベストも両大会共通。小さな備品まで共通化し、五輪からパラリンピックへの模様替えの手間も省いた。
ロンドン:楽しむ大会へと変貌
2012年のロンドン大会では、オリンピアンと同様に厳しいトレーニングを重ねたエリート・パラアスリートを、英国の公共放送「チャンネル4」が大々的に取り上げた。競技中継も積極的に行い、パラリンピックはその発祥の地でスポーツエンターテインメントとしての価値が高められた。チケットは、争奪戦が起きるほどだった。 2016年のリオ大会も、現地の盛り上がりは素晴らしかった。日本では東京大会を控え、連日競技が報道され、新聞のスポーツ面で扱われることが普通になった。障害者としてではなく、アスリートとして見つめる。その流れはパリでも、確実なものとなって引き継がれている。 パリではどの会場にもたくさんの観客が訪れ、250万枚のチケットが売れた。五輪との合計では1200万枚にのぼり、2大会合わせると史上最高のチケット売り上げ枚数になった。