[懐かし名車旧車] スバル360/1000/レオーネ:いいモノと売れるモノの違いに苦しんだスバルの軌跡
すっかり成熟したともいえる日本のクルマ業界だが、かつては黎明期や発展期がそこにあり、それらを経て現在の姿へと成長を続けてきた。後のクルマづくりにはもちろん、一般社会に対しても、今以上に大きな影響を与えていた”国産車”。ここでは毎回、1990年ごろまでの国産車を取り上げて、そのモデルが生まれた背景や商品企画、技術的な見どころ、その後のクルマに与えた影響などを考察していく。第3回は、スバル360/1000/レオーネ。水平対向エンジンやサッシュレスドアなどスバル“らしさ“誕生の秘話がそこに。 【画像】[懐かし名車旧車] スバル360/1000/レオーネ(×24枚)
航空機エンジニアが心血を注いだ国産車たち
今ではよく知られていることですが、工業製品の商品企画にはプロダクトアウト型とマーケットイン型というふたつのスタイルがあります。 ごくごく大雑把にいうと、プロダクトアウト型は最先端の技術で開発製造した画期的な商品を「どうだ!」と、高性能さを前面に出して売るスタイル。 マーケットイン型は客が求める性能や使い勝手などを過不足なく盛り込んで「あなたが欲しかったのはコレですよね」と売るスタイルです。 1960年代なかばまでの日本では、マイカーは憧れの最先端商品。ついにそれに手が届いた幸福な人々のクルマ選びの基準は、先進性や高性能でした。カタログに載る馬力がライバルより1馬力でも多いほうが売れたし、クラスを問わず”日本初!”、”世界初!”といった最新装備の有無も重要な決め手でした。 つまりプロダクトアウト型の、「お隣よりすごいクルマ」が売れたのです。 しかも、当時の日本の自動車開発者には、戦時中に戦闘機などを開発していた航空機エンジニアが多数いました。敵に勝つため、文字通り「必死に」高性能を追求してきた彼らの技術や思想は、自動車にも反映されました。 1958年に発売されて、日本のモータリゼーションのマイルストーンとなった軽自動車のスバル360もそうでした。
ビジネスとしては正解だったスバル360
スバル360開発者の百瀬晋六氏は、東京帝国大学航空学科を卒業し、スバルの前身である中島飛行機で戦闘機用の“誉(ほまれ)”エンジンなどを開発していた航空機エンジニア。 戦後も、中島飛行機が”平和産業化”してできた富士産業で日本初のモノコックリヤエンジンバスなどを開発し、1954年にはトヨタのクラウンに先駆けて、同クラスの本格セダンとなるP-1の試作に漕ぎつけました。 銀行の融資が受けられず、発売には至らなかったこのクルマにつけられた“すばる1500”の名が、同社の車名&のちの社名の起源になります。 お蔵入りになったすばる1500の仇を討つように、庶民のための理想のマイカーを目指して彼が開発したのが軽自動車のスバル360です。そこには戦後、空では活躍できなかった彼の高度な技術が投入されました。 丸みを帯びたフォルムとプレスラインによって、卵の殻のように強度と軽量さを両立させるモノコックボディ。かさばるコイルスプリングではなく、棒状のバーのねじり力で絶妙な乗り心地を生み出したトーションバー式の4輪独立サスペンション。小さなサイズに大人4人が乗れる車内を実現させるRR方式のレイアウトなど、スバル360には外国車のモノマネではない創意工夫と技術が詰め込まれ、事実発売後には海外の自動車メーカーやメディアからも注目されたのです。 1955年に報じられて庶民のマイカー熱に火をつけた旧通産省の国民車構想を受けて、庶民にも手の届く理想のクルマを作ろうと志したスバル360の開発動機はマーケット イン型でした。 けれど、持てる技術やアイデアを惜しげなく投入した内容は当時の最先端であり、成功の理由も、その先進性が人々の憧れを満たしたというプロダクト アウト型でした。