ぬれぎぬで甲子園の夢断たれ、死ぬ覚悟 「部長はこの野郎と思ったんじゃないでしょうか」 話の肖像画 元プロ野球選手・張本勲<7>
《左肩を痛め、打者としての資質は開花したが、甲子園を目前にして突然の「休部指令」…》 【写真】張本勲氏が始球式「ワンちゃんの記念の日と言うから無理してきた」=今年5月 (上級生の不祥事で続いていた昭和31年9月21日からの)1年間の対外試合禁止が解除された2年生の秋の大会で、私は4番、センターで先発出場しました。練習試合を含め、15試合で11本塁打、打率は5割6分だった。ホームラン王、首位打者、優秀選手賞も取った。これで甲子園に行ける、選抜に出られる。喜びましたねぇ。 ところが、とんだぬれぎぬを着せられた。翌春の選抜出場校の選考資料となる近畿大会の直前、監督室に呼ばれました。竹内啓監督が泣いている。「お前は休部だ」と言われ、「部長からの命令だ」っていうんです。私が浪華商へ転校した際、お世話になった中島春雄先生は部員の不祥事(31年)の責任をとってすでに野球部長を辞任し、体制が変わっていた。新部長には絶大な権限があった。 昔はよく補導員が繁華街にいた。学校をさぼって遊んでいた1年生部員が補導員に見つかった。その部員の顔が腫れていたので事情を聴かれた。そして「学校に行ったら、野球部の練習で先輩に殴られシャツを取られ、靴下も取られる」という旨、学校に報告されたんです。 問題が表面化したら、また対外試合は禁止になる。そこで部長は考えたんでしょう。集団ではなく、「張本ひとりが制裁した」と手紙に書いて高校野球連盟(高野連)に送っていたんです。 当時、上級生が下級生をいじめたり、「いいシャツ着てるやないか」って取ったりする。そういう制裁をするのはレギュラーになれない子です。私は「やめとけ!」って止めた方なんです。何十人と証人がいる。調べればすぐにわかることなのに高野連は何もしなかった。部長の報告をそのまま信用した。 学校は、〝小を殺して大を生かす〟ような形をとったんですね。プロ野球に行けるような4番打者を犠牲にした。もう世の中真っ暗ですよ。がっかりとかいう騒ぎではありませんよ。「休部処分」は納得いかなかった。けど誰がやったということは口が裂けても言えない。怒りをこらえて処分の解除を待ちました。 《32年秋、浪華商は近畿大会4強に入ったが、結局は不祥事を理由に翌年の選抜を出場辞退。さらに〝操作された処分〟によって、復部後も新たな試練に怒り爆発…》
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