【ゲーデルの不完全性】真であるが証明できないことってなに?クレタ人の預言者は言いました「クレタ人はいつも嘘つきだ」【嘘つきのパラドックス】
「真なのに証明できない」という事態
この問題は、扱っている数学のシステムによって変わってくる。だが、自然数の範囲での算数ができるようなシステム、すなわち、前に出てきたペアノ算術の場合、驚くべきことに(2)が答えなのである! つまり、「真であることと、証明できることは、完全には一致せず、真なのに証明できない」、という事態が生じてしまう! もっとも、このようなことは、日常言語ではいくらでもあるかもしれない。「あ、ちがかった!」と叫んだ男は、文法的にはまちがっているが、なにかをまちがえて叫んだであろうことは想像に難くない。文法的には「あ、ちがった!」というべきだが、いまどき、こういう言葉の乱れをとがめる人もいないであろう。 つまり、ふつうの会話では、文法的にはまちがっているけれども、意味は通じることなんて日常茶飯事なのだ。
「意味論」と「構文論」とは
論理学における真理関数の方法は「意味論」(semantics)と呼ばれ、形式証明の方法は「構文論」(syntax)と呼ばれている。国語でいえば、解釈の授業と文法の授業のちがいみたいな区分けである。 国語では、「あ、ちがかった!」とは逆に、文法的にはオーケーでも、意味が通らないこともある。たとえば「今日、虫がたくさん生まれ、私は無視される」というような文を作ることができる(なぜ、この文がナンセンスかといえば、地球上では、虫が生まれたからといって、誰かに無視される、というシチュエーションを思い浮かべることができないからだ。現実世界に対応する状況がないから)。 いずれにせよ、日常言語であれ、数学であれ、意味と記号がかかわってくるシステムにおいては、意味論と構文論、いいかえると解釈と文法とが一致しない、ということはありうる。 ただ、われわれはどうしても、数学は完全な世界のはずだから、意味論と構文論は一致するにちがいない、と感じてしまうのである。そして、この素朴な感覚を完全にぶち壊しにしてくれたのが、ほかでもない、クルト・ゲーデルその人なのであった。