《体に直接的に迫る生々しさ》片山慎三監督が最新作『雨の中の慾情』で描いた“夢の世界”
『雨の中の慾情』のなかに刻印された片山作品の生々しさ
『雨の中の慾情』には、つげ義春の「夢」作品における特色の多くが含まれている。現実世界からかけ離れていること、セックスへの傾斜を中心に、登場人物が常軌を逸した行動に走ること、そして、論理や脈絡を欠いた、しかし目の前に展開される豊かさに心を奪われること――。「原作の映画化」を物語の単なるトレースと見るならば、『雨の中の慾情』の物語は、あまりにも原作のそれとはかけ離れている(原作は19頁と短いため、別な物語を付与することの必然性はあるにせよ)。しかし同時に、少なからぬつげ作品の核となる「夢」の感触は、『雨の中の慾情』のなかに確かに受け継がれている。『雨の中の慾情』はいわば、原作をいったんは離れた独創性を付与することで、つげ作品の核を逆説的に継承した、稀有な一作となりえているのである。 また、そのような達成は、監督である片山慎三の力量があってのものであることも、ここで付言しておきたい。ふりかえれば、片山慎三の作品は、いつも「身体」に肉薄した生々しさを観客の前にさらけだしてきた。『岬の兄妹』(2019年)であれば、自閉症の女性・真理子がやくざに犯されるも、自身の置かれた状況をよく把握できず、本来なら絶望的な性行為の中で笑い声をあげる場面や、その兄・良夫が不良に襲われるも、とっさに脱糞し、ウンコを武器に窮地を切り抜ける場面。『さがす』(2022年)であれば、死を望むALSの妻の願いをかなえようと首に手をかけるも、行為を完遂できずに夫・智が慟哭する場面。短編『そこにいた男』(2020年)であれば、俳優・翔が浮気相手であった紗希に包丁で刺され、瀕死の状態で、全裸のままで部屋を這いずり回る場面……。いずれも画としての切迫感は鮮やかで、観客自身の体に直接的に迫ってくるような、生々しい魅力に満ちている。 そうした生々しさは、『雨の中の慾情』のなかにも確かに刻印されている。これまでの片山作品は、貧困や自殺幇助など現実社会に巣食う問題を物語の軸に据えてきたが、幻想譚のような色も強い、かつての作品とはやや趣を異にした『雨の中の慾情』のなかにも、片山作品に流れるエキスは見事に継承されることとなった。 なお、本稿では言及を避けてきたが、映画の前半における「夢」の感触は、後半において大きくその姿を変貌させることとなる。つげ義春と片山慎三のエキスが合わさった夢の水流は、どこへとたどり着くのか。こちらについては、映画館でこれから体感する観客のための、大きな楽しみにとっておきたい。 (※)じっさいにつげ義春は、少なからぬ作品が自身の見た夢に想を得た内容であることに言及している。本人の「夢日記」(『つげ義春大全 別巻1』〈講談社〉などに所収)を読むと、たとえば「外のふくらみ」(1979年)は1968年12月、「必殺するめ固め」は1972年7月4日、「ヨシボーの犯罪」は1973年5月10日に見た夢がベースになっていることがわかる。
若林 良/週刊文春CINEMA オンライン オリジナル