《体に直接的に迫る生々しさ》片山慎三監督が最新作『雨の中の慾情』で描いた“夢の世界”
ただ同時に、このような世界に触れたことが、どこかであるような気もしてくる。論理性も脈絡もなく、さまざまな事物が目の前に現れるこの感触――。そう、「夢」の世界だ。ひいては、つげ義春が描く漫画の世界だ。
「論理や脈絡の欠落」と「細部の豊かさ」の両立
冒頭で、つげ義春に「夢」と親和性が強い作品が少なからず見受けられることについて言及した。ただ、夢を「夢」たらしめるものは、その非現実性や、人物が常軌を逸した行動をとること以上に、そこに一貫した物語、また論理や脈絡が欠落していることにあるだろう。つげ義春の作品のなかには、しばしばそういった容貌の作品が見受けられる。 その意味で、つげ作品のなかでもっとも「夢」らしいのは、「ヨシボーの犯罪」(1979年)であるといえよう。作品では、女を喰い殺した少年・ヨシボーが(その「喰い殺し」ぶりはぜひとも作品を読んでいただきたい)自身の「犯罪」の証拠を隠すために家を出発するが、物語は、その当初の目的をしだいに見失っていく。ヨシボーは隠し場所を探し、自転車であちこちを回るが、しだいに焦りは紛れ、むしろ自身の運転テクに酔いしれるようになる。そののち、古民家や温泉を見つけ、その存在を「みんなに教えてあげよう」と、もと来た道を戻ろうとする。そして、そこでふいに物語は終わってしまうのだ。結局、「犯罪」に使用した凶器の処分はどうなったのか……と、普通の物語であれば回収されるはずの伏線が回収されないままに終わることに、読者としてはやや消化不良のような感触を覚えもする。 しかし、そのいっぽうで、「ヨシボーの犯罪」にあるのは、意味や文脈が規定されない細部の豊かさである。作中で、口を血まみれにしながら女を食べるヨシボーの姿や、幾重にも折り重なった布団の上に立つヨシボーの姿は、それ単体として強い魅力を放ち、作品を読み終えた後も、読者のなかに強く残り続ける。 映画『雨の中の慾情』は、原作の「雨の中の慾情」のほか、同じくつげ作品の「夏の思いで」(1972年)、「池袋百点会」(1984年)、「隣りの女」(1985年)のエピソードを劇中に組み入れている。「夏の思いで」からは、主人公の目の前で女性がひき逃げをされるというエピソード、「池袋百点会」からはPR誌を企画するも頓挫し、営業として雇った男からは金を持ち逃げされるというエピソード、「隣りの女」からは、トラックに乗って「商売」に向かうというエピソードを中心に採用している。しかし、それらが劇の中で完全に溶け合っているかといえば、そうとは言い難く、前述のように、一貫したストーリーはかなり見えにくい。 とはいえ、それは作品に「夢」の感触を付与するための、片山慎三監督や脚本を担当した大江崇允の戦略でもあるだろう。全体の謎めいた感触とは対照的に、本作の細部は非常に鮮やかな印象を残す。自身を「尻の穴まで舐める女」と名乗るときの福子の声の艶やかさ、ふいに銃をぶっ放す尾弥次の迫力、「鬼」が監獄と思わしき一室のなかで子どもたちにふいに襲いかかる姿などは、その意味や付随する感情を完全に飲み込めずとも、感覚的なものとして強く体に刻まれる。それは先述の「ヨシボーの犯罪」をはじめ、多くのつげ作品に通底するものだ。