《体に直接的に迫る生々しさ》片山慎三監督が最新作『雨の中の慾情』で描いた“夢の世界”
はじめは拒むそぶりを見せていた女も、やがて興奮に満ちたような喘ぎ声をあげる。そして事がすみ、雨が上がったあとは、ふたりは性器を結びつけたまま、泳いでバス停へと帰っていく。最後には、彼らは何事もなかったように服を着てバスに乗り、雨上がりの虹を見るのである。 多少の細部の説明は端折っているが、漫画「雨の中の慾情」の全体像は、おおむね上記の説明で概観できる。つまり漫画については、筆者はほぼ「ネタバレ」をしてしまっていると言えるが、映画『雨の中の慾情』(2024年)については、必ずしもそうとは言えない。なぜなら映画『雨の中の慾情』はつげ義春の原作に想を得ながらも、そこから大胆にイマジネーションを膨らませた、独創性のみなぎる作品となっているからだ。
映画オリジナルの展開から想起されるのは…
『雨の中の慾情』の冒頭は、先述の原作の物語をほぼまるまる埋め込んでいる。すなわち、バス停で男女が出会い、雷への恐怖から裸になり、泥だらけになりながらも行為に及び……といった展開が数分ほどの短い時間で、雨の轟音とともに繰り広げられる。 やがて雨があがり、虹が出るが、なぜか舞台は田んぼから滝壺の中に移っている。ふたりは全裸のまま、笑い声をあげつつ水をかけあっている。見方によっては、彼らはエクスタシーの絶頂に達したようにも思えるが、さてここからどうなるのか……となったところで、主人公・義男(成田凌)は目を覚ます。そう、これは義男が見た夢であったのだ。以降は原作を離れた、映画オリジナルの展開となる。 義男はそのまま机へと向かい、自身が見た夢を漫画のコマに反映しようとする。部屋のなかにある、「ねじ式」のワンシーンを思わせるさまざまな目の絵からも、彼が絵や漫画を描く人間であることが推察できる。しかし、その作業は右腕のない大家・尾弥次(竹中直人)によって中断され、彼は否応なしに引っ越しの手伝いに駆り出される。そして、訪れた家の寝室には、福子(中村映里子)という女性が一糸まとわない状態でベッドに横たわっていた。思わずスケッチをはじめる義男。すると目を覚ました福子は、「触るんじゃなくて描くんですね」と、どこかいたずらっぽい表情を浮かべながら義男に声をかける。義男は、そこから福子に心を奪われ、彼女への想いを心に抱え続けることになる。しかし福子は、小説家を志す知人・伊守(森田剛)と付き合っているらしく――。 ここまでが映画『雨の中の慾情』の「さわり」の部分だが、これから先の物語の筋の詳述は避けておく。いや、というよりも、そののちの物語は断絶や不合理が多く、何かしら筋の通った形で説明をすることは相当に難しいのだ。義男が伊守の企画によるPR誌の営業を手伝わせられるも失敗したり、かと思えば伊守が突然大豪邸の主人になっていたり、尾弥次が子どもたちの頭からエキスを吸い取る怪しげな仕事を主導したり、義男と福子が、自然の広がる湖畔にただ一つ置かれたベッドの上で性交にふけっていたり……。どのような文脈で、なぜそうなるのか、観客は明確な手掛かりを得られないまま、画面に向き合うこととなる。