東日本大震災から13年、異常高温で再び危機に陥った石巻「十三浜ワカメ」を守る住民と消費者の絆
70年近く続いた浜の生業、壊滅からの決意
「十三浜ワカメ」は、三陸の外洋と北上川河口の汽水が交わる栄養分豊富な荒波に育てられ、葉肉が厚く、締まって、ぷりぷりとし、全国の市場から「ブランド」と認められてきた。「ここのワカメは、60年近い歴史がある」と清吾さん。 「この浜にも出稼ぎがあったんだ。田んぼのない、貧しい半農半漁の村だった。高度経済成長期の東京方面へ、全国へ、現金収入を求めて、みんな出ていった」。十三浜で出稼ぎをする漁業者の家は一時、200戸にも達した。毎年4月から10月まで出稼ぎ先で働き、11月からのアワビ漁のために帰ってきた。アワビは、1日捕れば、ひと月分の収入を稼げた。それに、半年出稼ぎ先で仕事をすると、残り半年分の失業保険をもらえた。そして、翌年の漁閑期になると、また集団で行った。 清吾さんは26歳で分家してマグロ船に乗るなど、出稼ぎに行かなかった。「家族と半年も別れて暮らす不自然に、何とかやめられないかと誰もが思っていた。そして、ワカメの養殖が世に出た」。ワカメ養殖の創始者、大槻洋四郎= 宮城県出身=が戦前の旧満州(中国東北部)で兵隊の食料用に養殖試験を成功させ、戦後、牡鹿半島で種苗を付けたロープを海に垂らし量産する「垂下式」を広めた。さらにシケに強い、ロープを水平に張る養殖方法も生まれ、安定して高品質のワカメ生産を根付かせた。その最適地が十三浜だった。ワカメは十三浜の住民を出稼ぎから解放し、自立、自助の生き方を教えたという。 1998年に十三浜漁協組合長となり(宮城県漁協発足で2007年から1年間、初代北上町十三浜支所運営委員長)、大震災が起きた当時は、隣浜の義兄のワカメ養殖を手伝っていた。家族、親戚を亡くした失意から、十三浜を離れて、仙台郊外にいる長男と暮らそうと決めていた。ところが、地元の漁師たちが清吾さんを囲んで連日、「もう一度、運営委員長をやってくれ。あんたしかできない」と訴えたという。「もう人のことをできる状態ではない」と断ったが、最後には「この惨状から逃げないでくれ」と懇願され、引き受けざるを得なかった。が、すべてを流され失った地域立て直しの労苦もまた未曽有のものだった。 十三浜には388隻の漁船があったが、津波の後に残ったのは40隻のみだった。「津波から残った漁船を皆の共同作業に提供してもらい、漁協が手当を出すことにした。一人の仲間も落ちこぼれさせたくなかった。みんなで復活しようと呼び掛けた」。がれき処理の日当で避難所の家族を支えた漁師たちには、ワカメ養殖の漁場再生がただ一つの希望だった。 十三浜の養殖ワカメが復活したのは翌2012年の収穫期。宮城、岩手の三陸産ワカメが前年に壊滅し、全国で品不足となった12年3~4月の入札会で、十三浜ワカメは10キロ当たりで2万円前後の最高値を続けブランドを回復した。「ボランティアや支援者の人たちの応援や資金、設備の寄付もあり、その出会いが自分をも立ち直らせた」と清吾さんは語った。