東日本大震災から13年、異常高温で再び危機に陥った石巻「十三浜ワカメ」を守る住民と消費者の絆
能登につながる、共に歩む支援を
「(東日本大震災が起きた)13年前、あれほど辛い思いをさせられた難儀が、今度は能登半島で……。なんとむごく、いたわしいことか」。清吾さんは、大室集落の50戸余りの家と同胞を呑んで漁港の外へ流し去った大津波の記憶と、多くの集落が全壊した能登の被災地のニュースを重ね、うめくように言った。すでに見舞金を、津波の後に復活させた「大室南部神楽保存会」と漁協十三浜支所から現地に送ったそうだ。また、中古の漁船を譲ってほしい、という石川県漁協からの依頼が、地元の漁師たちに周知されているという。能登半島の北岸で海底が広く隆起し、多くの漁船が港々で座礁した事態からの応援要請だった。 清吾さんがさらに衝撃を受けたのが、能登半島の被災地をつなぐ道路が寸断され、沿線の住民も孤立して満足な避難場所さえ乏しい状況だった。2月25日の河北新報は『現地の24地区3345人が孤立状態に陥り、石川県が北陸電力志賀原発(注・運転停止中)の重大事故時の避難路に定めた国道や県道計11路線のうち7路線で通行止めが発生した』と伝えた。 「十三浜は(30キロ圏にある)女川原発の再稼働に支所を挙げて反対してきた。東日本大震災並みの地震再発も予測され、国は能登半島地震を教訓に避難計画を見直すべきだ」と清吾さん。仙台高裁で控訴審が行われている女川原発再稼働差し止め訴訟に参加し訴えている。十三浜ワカメが復活の翌年、福島第一原発の汚染水流出事故の風評被害に巻き込まれた理不尽で苦い経験もある。 「ここのリアス海岸の一本道の地形はいまだ13年前とも、能登半島とも変わりなく逃げ場がない。どんな災害からも、未来永劫、この浜を守らなくては」 小山さんは能登地震のテレビ報道で「観光で有名だった輪島朝市――」「名所の白米千枚田――」などと前置きされる度、強い違和感を募らせた。「観光のためでなく、浜の人、山の人が暮らしの場で作るもの、採れるものを持ち寄ってきた市。平地のない海辺に営々と苦労して拓いた田。その成り立ちも背景も、テレビの人は知らない、伝えられない」 心に焼き付いたのは、倒壊した自宅で亡くなった妻が重箱にブリ大根を残していた、という新聞記事。孤立した集落からヘリで救出されるお年寄りたちが「離れたくない」と泣いていたニュース映像。「地元の海の寒ブリの料理に家族が集った冬。深い自然の中で寄り添った人と人のつながり。そんな暮らしがなくなってゆく悲しさを誰もが訴えていた」 コンビニもバスの便もない、あるのは自然、という環境で助け合って生きる人々がいる。それを過疎、消滅地域と切り捨て、東日本大震災後のように「復興」の名でコンクリートの建物に押し込めるのは間違い――。 「人が生きる場には暮らしと生業の形、文化がある。私たちは十三浜との交流を通して、その一つ一つを学んできた。今の温暖化が進めば、食べ物をはぐくむ環境は悪化するかもしれない。心配だけれども、清吾さんら十三浜の人たちには『あの震災を乗り越えたんだ、皆で頑張ろう』という絆の力がある。私たちも共に悩み、考え、歩んでいく」と小山さん。 それが能登の被災地にもつながる支援の形ではないか。
ジャーナリスト 寺島英弥