ヒグマに襲われた数名の死体が…「もう少し早く知らせてもらっていたら」「三毛別事件」凶悪熊を討ち取った「伝説のハンター」の悔恨
この12月に事件発生から109年目を迎える「三毛別事件」。凶悪熊を討ち取り、その被害を食い止めたハンターの知られざる足跡を『神々の復讐』(講談社刊)の著者中山茂大氏が追った。 【マンガ】「しすぎたらバカになるぞ…」母の再婚相手から性的虐待を受けた女性が絶句 中編記事『「三毛別事件」史上最恐のヒグマを討ち取った「伝説のハンター」がいた!「酒癖が悪いが…」「カネへの執着はない」…その「意外な素顔」』より続く。
被害拡大への悔恨
事件直後の地元紙のインタビューに、兵吉は次のように語っている。 「このたび三毛別に現れた巨熊の話は、残念のことには太田方の被害があってから三日目にようやく聞きましたので、もう少し早く知らせてもらったら、あれほど多人数の死傷者を出さんうちに討ち止めることが出来たろうと、被害者が気の毒でなりません、(中略)私が三日の後、すなわち十一日午後、山道を越え三尺余の積雪と吹雪を冒して駈け付け、ようやく日が暮れて三毛別に着き、親類の宅に立ち寄り概略の様子を聞き、(中略)午後の十時頃、ようやく被害者の宅へ着きましたが、その時はすでに熊が襲った後で、室内には数名の死体が鮮血に染まって横たわり、その酸鼻の状は到底言葉では語ることが出来ません」(『小樽新聞』大正五年一月二十七日) この記事で筆者が注目したいのは、「親類宅に立ち寄り」という記述である。六線沢に兵吉の親戚が住んでいたのである。しかし六線沢住人で「山本姓」は見当たらない。母方の姓である「田中姓」もない。ただひとつだけ可能性がある世帯主がいた。 「岩崎金蔵」である。というのは、兵吉の原戸籍にある末妹ミサについての記述に、「明治四十三年十一月十五日 新潟県中頼城郡直江津町(中略)戸主 岩崎大平と婚姻届出」とある。ミサは函館で岩崎大平という人物との婚姻届を提出しているのだ。 上述したように、母ムメが函館で死去した際の届出人は「同居者 岩崎仁作」であった。おそらくミサの伜だろう。この「岩崎大平」という人物が、岩崎金蔵の近縁者であったかもしれない。苫前歴史資料館によれば、岩崎家は最初に襲撃を受けた太田家の隣家であった。木村の『苫前羆事件』にも、その名前が出て来る。 「たまたまこの9日の9時半ば頃、三毛別松下沢の農夫松永米太郎が、乗り馬でこの氷橋作業の現物を通過、川上から3軒目の岩崎金蔵のところまで行ってくる、と皆の衆に会釈しながら過ぎ去った。岩崎は、根からの石工で入植後も暇を見ては石臼作りの内職をしていた」 この後、石臼を受け取った松永が再び太田家の前を通りかかったところ、来るときにはなかった、なにかを引きずった跡が一直線に雪上に印してあり、そこに点々と滴り落ちる血痕を見た。つまり事件の第一発見者となったわけである。