「息子に託すしかない」 福島の海と原発と “負のイメージ”のまま進む時計 【東日本大震災13年の“あれから”】
■“漁師を継ぐ”長男の夢 奪った原発
都会にいる3人の子供たちが帰ってくるとサシミを見た娘は「おとうがとったやつ?」と聞いた。 佐藤芳紀さん 「いや、違うさ。今は食べられないって言ってるでしょ」 「買ったのよ」 長男の佐藤文紀さん(当時21歳)は、大学を卒業したら漁師を継ごうと思っていた。 佐藤文紀さん 「やっぱり心のどこかでは、もしかしたらまだすぐ原発が良くなって漁師になれるんじゃないかというのがちょっとあったんで」 震災が起こり、望んでいなかった就職活動。内定をもらっている会社に就職を決めました。 ◇ 父・佐藤芳紀さんは船のエンジンを新品に取り替えました。かかった費用は1600万円。前に進むしかないという父の決意の表れだった。 真新しいエンジンを積んだ船で向かう親子2人でのモニタリング調査。目の前には、福島第二原発が見えた。そしてその向こうには、漁師になる夢を奪った福島第一原発。 父・佐藤芳紀さんは、いつかこの福島の海に日常が戻ってくることを信じる。 佐藤芳紀さん 「海は死んだとは言いたくはないです。今まさに死にかけてるんじゃないかと思います。どんな形であれ生き延びてもらいたい」
■希望を持って「船を継いでもらうのが」
2020年、佐藤芳紀さんの息子・文紀さんは3代目として福島に戻ってきていました。 佐藤芳紀さんは、「うん、おいちいね~」と孫をあやしていました。文紀さんの長男・舷紀ちゃん(当時6か月)には、文紀さんが、将来漁師になってほしいと願っています。 文紀さん 「希望を持って船を継いでもらうのが一番いいのかなと思ってますね」
■回復し始めた海の資源 「もう息子に託すしかない」
ホッキガイの漁が行われた日、約500キロが水揚げされました。原発事故後、福島では漁を自粛したことで、ホッキの他、高級魚のヒラメなどが増え、海の資源が回復しているのです。 普段はそれぞれの船で漁に出る漁師たちが、一つの船に乗り合わせ共同で操業し、売り上げも分配していました。佐藤芳紀さんは「先のことを考えれば、こういう形態がまず大事なんじゃないかと」といいます。 2020年6月までに、モニタリング検査は6万件を超え、(放射線の)基準を超える魚種はなくなり、今はもう全ての魚をとることができます。 佐藤芳紀さん 「9年間調べて、今、もうすごいデータになっているはずだ。モニタリングっていうのは」 豊かな海を守り、次の世代に資源を引き継ぐことが、漁師が生き残るすべだと考えています。 佐藤芳紀さん 「ただ、今は残された資源、貝の生存年数もありますし、そこら辺を見極めて長くとっていかなきゃならない」 「もう息子に託すしかないんですよ、いま我々は」 「少しでもやっぱり安定した生活ができるような漁業形態を築いていければ」