追悼 済美の上甲監督が貫いたもの
愛媛・済美高校の上甲正典監督が亡くなったことを、友人からのメールで知った。その日、アスレチックス傘下の2Aチームでプレイしている中島裕之の取材で、テキサス州のフリスコという街にいた。プレイオフは残っているが、一応、レギュラーシーズンの最終戦。取材したあと、中島とは駐車場で分かれ、ホテルに戻ってパソコンの前に座り、メールを開いた瞬間のことだった。 しばらくは、言葉が出てこなかった。 最後に電話で話をしたのは、確か6月の中頃のこと。そのとき、それまでとは何ら変わらなかった。ただ、昨年12月に訪れたとき・・・。 昨年の終わりに日本に帰国した際、上甲監督に、「お邪魔してもいいですか?」と連絡をすると、「いらっしゃい、いらっしゃい 」。絵文字付きの返信があった。12月17日午前、松山に着いて監督に電話を入れると繋がらず、ややあって、「今は病院なので、午後3時半頃、グラウンドに行きます」とのメールが届いている。 そのときは、少し体調を崩されているのかな、ぐらいにしか思わなかったが、夕方、松山市内にある済美高校で野球部の中矢太部長と待ち合わせて練習場へ車で向かっていると、「実は先月、入院されてまして」と部長が教えてくれた。 練習場に着き、グラウンドの一塁ダグアウトの横にある監督室をノックすると、「どうぞ」の声。ドアを開けると、なぜかたたきに置いた椅子にマスク姿で、監督は座られていた。 「こんな姿で申し訳ない。まだ、免疫力が弱いから、あまり外にも出られない」。入院されていたことを伺いました、と伝えると、監督は言っていた。 「そうなんですよ。帯状疱疹でね。参った」と笑った。そう、そのときは帯状疱疹と言っておられた。またそれを疑うこともなかった。 ただ、その日の夜、食事に誘われ、宇和島東の監督時代の教え子がやっているというもつ鍋屋へ行ったあと、前回のときは、2次会、3次会と続いたのに、監督は、「少し熱があるので、今日は、先に帰らせてもらいます」と言って、その場をあとにされた。 今思えば、あのときが最後になった。翌日も練習場で会う予定になっていたが、「病院にいて、今日は行けそうもない」との連絡が入った。その後、年が明けてから電話で話をしたときには、「ようやく、良くなって来た」と話しており、もう安心だと思っていたのだけれど。