【京アニ事件死刑判決】精神医学と司法の“溝”、遺族も社会も納得するためには
京都アニメーションのスタジオを放火し、36人が死亡、32人が重軽傷を負った事件の発生から7月18日で5年となった。京都地方裁判所は、殺人などの罪に問われた青葉真司被告に2024年1月に死刑を言い渡した。青葉被告は控訴している。 当然の判決であると感じる国民も少なくないだろう。36人が亡くなっているのである。被告には妄想があったし、今もある。容易に修正されない。再犯はありえる。 遺族の憎悪は激しい。国民の不安も強い。遺族の憎悪も国民の不安も、理不尽だとして切り捨てることはできない。
被告が鑑定された「妄想性障害」とは?
本件公判の争点は、起訴事実ではなく、被告の責任能力に絞られた。起訴前に京都地検の嘱託を受けて行われた鑑定は、「妄想性パーソナリティ障害。犯行時の行動には影響はほとんどみられない」とした。 公判段階で弁護側の要請を受けて行われた鑑定は、「重度の妄想性障害。妄想は犯行動機を形成している」とした。京都地裁は、診断については「妄想性障害」を採用し、犯行に至った経緯については「妄想の影響は認められない」と判断した。 「妄想性障害」は、かつて「パラノイア(偏執病)」と呼ばれた。一見すると首尾一貫した行動をとっているように見えて、その実、全人格が妄想に支配されているのが特徴である。 パラノイアの大量殺人として有名な、「ワグナー事件」(1913年)の被告も、事件前から詩や戯曲を書いて、劇場に送り付けていた。彼は事件後の裁判で、精神鑑定にて心神喪失(責任無能力)とされ、精神科病院への入院を命じられた。入院中も文学への野心は消えず、ルートウィヒ2世を題材とする戯曲『妄想』(1921年)を書き上げ、その一方で、他の作家の戯曲を、「自分の盗作だ!」と非難して、ひと騒動起こしている。
司法精神医学的には、違和感を覚える判決
話を京アニ事件に戻すと、国民感情からすればもっともな判決であろう。ただし、誤解を恐れず、精神鑑定医の立場からすれば、違和感を覚える判決となる。 心神喪失(責任無能力)の判断基準は、国、時代によって小さな揺れがあるので、「ワグナーが心神喪失だから、青葉被告も同じ」とは言い切れない。それでも、「妄想性障害」と診断して、かつ、「完全責任能力」とする判断は道理が立たないように感じる。少なくとも心神耗弱(限定責任能力)程度の減弱は認定される必要があるのではないか。 精神医学的には、「妄想性障害」と「妄想性パーソナリティ障害」とは根本的に異なる。前者は「病気」であり、後者は「ひとがらの問題」である。精神の「病気」は、刑法39条「心神喪失者の行為は、罰しない。心神耗弱者の行為は、その刑を減軽する」の対象になるが、「ひとがらの問題」はならない。 この点を考慮すれば、裁判所が、「妄想性パーソナリティ障害=ひとがらの問題」診断を採用して、その結果、「完全責任能力」としたのならまだしもわかるが、京都地裁は、あえて「妄想性障害=病気」の診断を採用し、それにもかかわらず「完全責任能力」と主張した。「単なる『ひとがらの問題』ではない。確かに病気だ。しかし、減免に値しない」と主張したように見える。ここに、精神医学と司法との視点の違いがある。 判決では「被告人は妄想性障害の影響により、京アニが自分自身の作品を盗用していると考えるようになったが、抗議をするなどの手段を選択することなく、京アニを攻撃しようと考え、大量殺人の実行に及んだ」として、「これらの行動が悪だという認識を示しており、善悪の判断もついていた」と判断している。 つまり、犯行の動機については妄想性障害の影響があったものの、火を付けて大量の人間を殺害することの善悪の判断はでき、殺人以外の選択もできたことから、犯行自体については妄想性障害への影響はみられない、ということだ。 人が病気であるかどうかを判断する精神科医と、過去に起きた出来事の経緯に精神疾患の影響があったかを判断する司法。方向性および見方の乖離が出た判決と言える。