【京アニ事件死刑判決】精神医学と司法の“溝”、遺族も社会も納得するためには
刑事司法制度再考の時
刑法39条のような乱心者免責規定は、養老律令以来の長い伝統を有するとされる。1300年の歴史があるこの制度を、私どもの時代に終焉させていいのか。それに、死刑の存置されているこの国で、心神喪失者・耗弱者とされるべき人を、次々に絞首台に吊るしていいものなのだろうか。私もその判断に苦悩する一人である。 あくまでも個人的な見解であるが、私どもは、歴史という法廷で裁かれる覚悟はあるのだろうか。私どもは、もしかしたら自身が後世に禍根を残す、重大な過ちを犯している可能性に気づかねばならないのではないだろうか。 では、何ができるか。刑事司法制度を再考する必要があるのではないか。ドイツ刑法がそうであるように、「心神喪失=無罪」となった人に対して、裁判所が「治療&治安」を命じることができる制度を作ることを検討してもよいのではないか。 そうすれば裁判所が「心神喪失=無罪」との判決のハードルも下がるのではないだろうか。そして、「治療を命ずる。治安は国の責任だ」と直ちに付け加えることもできる。 治療と治安という二つの目的を可能にする刑事制度は、「刑事治療処分」と呼ばれる。この制度があれば、心神喪失者に対して、治療を受けさせつつ、地域社会の安全を担保することができる。治安上のアフターケアを明文化しておけば、裁判所も、安心して「心神喪失=無罪」との判決を下せる。 しかし、この制度がなければ、今回のように精神科医と司法との乖離は残る。この乖離をどう埋めていくのか、京アニ判決は、そのことをわれわれに問うている。精神科医である私にはそう思えてならない。
井原 裕