『ビバ!マリア』二大スターの共演、“アンファンテリブル”としてのブリジット・バルドー
ブリジット・バルドー、戦いの人
「彼女は獲物であると同時にハンターでもある」(シモーヌ・ド・ボーヴォワール)*2 フェミニスト理論家のシモーヌ・ド・ボーヴォワールは「ブリジット・バルドーとロリータ・シンドローム」という文章の中でブリジット・バルドーを称賛している。ルイ・マルは英文で書かれたこの文章をフランス語に翻訳してブリジット・バルドーに読み聞かせたことがあると語っている。ブリジット・バルドーは「全然私に関係ないこと」と大笑いしていたという。しかしルイ・マルが言うように、シモーヌ・ド・ボーヴォワールの文章はブリジット・バルドーという“現象”に鋭く迫っている。ブリジット・バルドーは思い上がった男性が気軽に声をかけられるような女性ではない。ブリジット・バルドーは、その行動によって無言の内にジェンダーの平等を主張している。そして野性的ともいえるナチュラルな彼女の無邪気さ。子供のような純真さ。 『ビバ!マリア』はブリジット・バルドーのこういった資質を存分に解き放っている。これまで自分の性的な魅力についてまるで無関心だったマリー。マリーはもう一人のマリーと共にステージに上がる。彼女の魅力は瞬く間にオーディエンスによって発見される。スターダムを上りつめていくマリー。マリーは生まれ変わる。関係を持った男性のリストを次々と部屋の壁にメモしていく。まさに“獲物であると同時にハンター”である。彼女は恋をしているのではない。ただただ人生を楽しんでいる。 アンディ・ウォーホルは1973年のブリジット・バルドーの引退宣言後に、彼女の肖像画を描いている。この肖像画で印象的なのは、なによりブリジット・バルドーの髪の質感である。生き物のように野性的な髪には、相手を威嚇するような、襲い掛かってくるような威厳がある。ここには、アンディ・ウォーホルがブリジット・バルドーのことを「真にモダンな女性の一人」と称えた理由がある。 『ビバ!マリア』のブリジット・バルドーは、同時代の多くのアーティストが称賛するブリジット・バルドーのイメージそのものといえる。ボーイッシュなスタイルで登場する冒頭。可憐な衣装でマシンガンを乱射するマリー。爆弾を片手に移動するマリー。爆破に次ぐ爆破。“女性によるバディ・ムービー”を志向する『ビバ!マリア』には、ブリジット・バルドーとジャンヌ・モローという二大スターによる創造的な企み、喜び、閃きが溢れている。ブリジット・バルドーのことをフェミニズムの草分け的存在だったと位置付けたルイ・マルは、『ビバ!マリア』を撮ることによって、その主張の正しさを証明しようとしたのではないだろうか。