ゴルフの文化や歴史を学ぼう。ベテランシングルが考える“もう一つ”のゴルフの楽しみ方【参上! ゴルファー応援隊】
ゴルフの上達を目指すゴルファーにとって役立つ情報を発信する「みんゴル・ゴルファー応援隊」。その隊長に就任したシングルプレーヤー・マツケンが上達のヒントになることを紹介。今回は、「日本のゴルフの歴史を考える」がテーマです。
文化や歴史を学ぶのもゴルフの楽しみの一つ
実に多くの人に親しまれているゴルフというゲーム。日本でこれほどまでにゴルフが盛んになるまでには、多くの先人の方々の努力があってのことと思います。 今、私たちがゴルフを楽しめるのもそうした人々のおかげと言えるでしょう。新しい年の初めにあたって、ゴルフを日本にもたらしてくれたゴルフ黎明期の人々についてご紹介していきたいと思います。 日本のゴルフの始まりは1901年(明治34年)、兵庫県の六甲山頂に、イギリス人貿易商、アーサー・へスケス・グルームが手造りで4ホールを完成させた神戸ゴルフ倶楽部です。ただし、当初プレーしていたのは外国人ばかりで日本人はほとんどいませんでした。 その後、次第に日本人メンバーも増えていきますが、日本にゴルフを広める役割を果たしたのは、イギリスやアメリカと貿易を行っていた貿易商や商社に勤める人々でした。その先駆者として挙げられるのは、安政生まれで日本の生糸を海外に輸出する道を開いたと言われる新井領一郎です。滞米中の1902年にゴルフを始め、帰国する度に周囲にゴルフを勧めたと言われます。 その中には日銀総裁や大蔵大臣を務めた井上準之助がおり、彼は後に東京ゴルフ倶楽部創立に力を尽くすことになるのです。 日商岩井(現双日)の高畑誠一という人も見逃せません。ロンドン支店赴任中にゴルフを覚えた高畑は、昭和天皇にもゴルフを紹介し、帰国後は日本ゴルフ協会の設立に尽力。日本初のゴルフルール解説書を出版しました。今ではゴルファーの必須アイテムとなっているヘッドカバーや、ゴルフ用グローブを考案したのもこの方でした。 一方、アメリカやイギリスに留学した人々もゴルフを持ち帰りました。 明治40年にイギリスに留学した、大谷光明(おおたに こうみょう)は、西本願寺門主の三男という出自を持ちますが、留学中にどっぶりゴルフに浸かり、帰国後は東京GCのメンバーになり、高畑らとともに日本ゴルフ協会の設立に寄与しました。 1922年には、来日したプリンス・オブ・ウエールズと皇太子(後の昭和天皇)との親善マッチで、皇太子とペアを組んだという記録も残っています。大谷は川奈ホテル大島コース、名古屋GC和合コースなどを設計したことでも知られています。 もう一人、留学組で功績が大きいのが、赤星六郎(あかほし ろくろう)です。彼はアメリカ留学中にゴルフを覚え、在学中に現地のトーナメントでも優勝を果たすなど活躍。帰国後は本場アメリカのゴルフを多くの人に伝え、その当時まだレベルの低かったプロゴルファーたちがこぞって門を叩いたと言われています。 六郎は第一回日本オープンにアマチュアながら当然のように優勝し、日本のゴルフを飛躍的に発展させたと言われています。六郎は我孫子GC、相模CCなどを設計しています。 その兄、赤星四郎も日本アマ優勝2回を誇る名手でした。四郎は、程ヶ谷CC、霞が関CC西コース、富士CC、箱根CCなどの数々の名コースを遺してくれました。 このように、黎明期の日本のゴルフは貿易商や、留学生など、海外でゴルフを覚えて帰国した人々によって広まっていったのです。 今私たちが当たり前のように楽しんでいるゴルフゲーム。その歴史は、JGAが昨年から始めた「ゴルフペディア」や、今年からプロとアマが合同で顕彰されることになる「日本ゴルフ殿堂」など、歴代の名手や、ゴルフ界に大きな足跡を残した人々について詳しく解説しているところもあります。 ゴルフは技術やスコアを競う以外に、こうしたゴルフ文化や歴史にについて知ることも、楽しみの一つではないでしょうか? 先達のゴルファーへの感謝を込めて、想いを馳せる機会を作って頂けたらきっとゴルフライフが豊かになると思います。
ゴルファー応援隊長・マツケン