江戸時代に著作権はなかった? パクリ横行のかわら版、作り手の悩みとは?
著作権保護が声高に叫ばれている現代と異なり、江戸時代の書物や印刷物には明確な著作権の考え方はなかったようです。庶民の娯楽であったかわら版は、とくに売れ行きのよかったものは、その人気にあやかろうとこぞって海賊版が作られたそうです。なかにはオリジナル以上の売れ行きのものもあったと言われています。 江戸時代の書物やかわら版などの出版物の著者は、横行する海賊版ビジネスに打つ手はあったのでしょうか? 実際にほぼ同時期につくられたオリジナルと海賊版を見比べながら、江戸時代の著作権に対する考え方と出版事情について、大阪学院大学、准教授の森田健司さんが解説します。
江戸時代における印刷物の著作権
ものづくりが継続して可能となる第一の条件は、それに見合う対価が払われることである。ストレートに言うと、お金がなければ「もの」をつくることなどできない。人が生きていくには衣食住が確保されていなければならず、そのためには絶対にお金が必要だからだ。 「現代社会で」という限定を付けた場合、「形のないもの」、例えば絵や小説、音楽などが安定して作られ続けるためには、もう一つ必要な条件が存在すると言われる。それは、著作権が認められることである。 著作権とは「著作者が著作物を独占的に支配して利益を受ける知的財産権の一種」を指す。この権利が認められ、法的に保護されていなければ、優れた著作者が正当に利益を得ることができなくなる。経済のグローバル化とインターネットの発達によって、著作権はかつてとは比べ物にならないぐらい注目を浴びている。 ところで、江戸時代の日本において、著作権はどういう扱いだったのだろうか。 一言で述べるならば、これに対する意識は極めて脆弱なものだった。印刷物に関しては、本屋仲間(書物仲間)と呼ばれた今の出版業者の組合に類する団体や、奉行所が各種の触(ふれ)によって類似した商品の作成、販売を禁じたりしていたが、それも現実的には効力のあるものではなかった。 結果として、江戸時代においては、海賊版が氾濫していた。そもそも、木版印刷されたものだけではなく、手で書き写した写本も流通していたのだから、規制することなど実質的に不可能である。だから、山東京伝(1761~1816年)や曲亭馬琴(1767~1848年)のような今も名を残す読本(よみほん)作家たちであっても、自身の物した作品から得られた利益は、驚くほど少ないものだった。 それでは、かわら版はどうだったのだろうか。かわら版は非合法出版物であり、本屋仲間の規制も届かないし、ましてや役人が権利を保護してくれることなどあり得ない。結果、当然のようにコピーされたかわら版が氾濫する状況を招くこととなった。 しかし、これは決して悪いことばかりではない。今で言えば著作権フリーの状態だったため、情報が瞬時に遠い場所にまで伝達されたからである。その一方で、伝言ゲームに似たような問題も生じることとなる。事件の報道であれば、いつのまにか実際に起きたものとは大きく異なる情報に変質するということもあった。