「京にあらず、国にあらず、中間に孤居す」と記された古代大宰府 概説書をまとめた赤司善彦さんが「本当に書きたかったこと」
「大宰府は僕にとって考古学そのもの。考古学人生の集大成の扉をやっと開いたかな、という感じですね」。大野城心のふるさと館館長の赤司善彦さん(67)は3月に刊行した同成社の「新日本の遺跡」シリーズの「大宰府跡」執筆を振り返る。 【写真】平安時代の宮中行事を再現した「曲水の宴」 27歳で大宰府調査研究の拠点、福岡県立九州歴史資料館に入った。それから40年。今では文献史料が残る時代が対象の「歴史考古学」、中でも古代大宰府に詳しい研究者の一人に数えられるようになった。「大宰府で歴史考古学を確立しようと意気込む偉大な諸先輩が多く、その圧力で『つぶれないか』と心配してくれた方もいたほどです」と語る。 大宰府跡の概説書になる今著書の執筆はシリーズの監修者である水ノ江和同・同志社大教授の声かけで実現した。「『大宰府ですけど』と聞き、長年やってきたテーマなのですぐに引き受けました」。第1部で平安時代の史料に「京にあらず、国にあらず、中間に孤居す」と記され、首都と地方の中間的な存在と位置付けられ九州全体の内政を統括し外交の窓口となった古代大宰府の機能や研究史などをまとめた。第2部では1968年に始まった発掘調査を振り返りながら、考古史料に基づく解説をやや専門的に行った。 紹介した学説は一般的に広く知られているものだけではない。自ら考える「斉明天皇の朝倉宮は大宰府」「大伴旅人の屋敷は政庁正殿跡北西の坂本八幡宮ではなく、政庁正殿跡南東側」など諸説も盛り込んだ。「概説書では普通は『諸説あります』とはしないと思います。ただ、現段階でどんな説があるのかを記すことは、今後の研究につながる。一つの歴史的事実についてさまざまな解釈があるのが本当に健全な歴史学だと思う」と言う。当然、研究が進み今著の内容が書き換えられるのは大歓迎だ。 40年間向き合ってきた大宰府だけに書きたいことはたくさんあったが、ページ数の関係で半分に圧縮した。大野城などの古代山城や水城については版元側から「まだ後で」と言われたそうだ。「本当に書きたいことは大宰府と古代山城などとの関係ですね。それを解明することで大宰府が何なのかというのが分かってくる」。続編が待ち遠しい。 (古賀英毅)
西日本新聞