大炎上した「挨拶しない自由」の議論が、10年後には「消滅する」と言えるワケ
「ジョブ型」なら考え方は変わる
合理性に欠く日本の雇用制度について、うまく説明しづらかったせいか、ジョブ型、メンバーシップ型など、分類があるかのような言い回しが定着してきたものと思われる。現実には、きわめて特殊な日本型雇用制度とそれ以外と考えて差し支えない。 日本の場合、職務に対してではなく、組織に帰属していることに対して賃金が支払われており、その結果として雇用の流動性が低く、一度、組織に入ってしまうと、同じ顔触れでの仕事が長く続く。これは、ある種の前近代的ムラ社会であり、全員が所属する組織を能動的に選択できない以上、個人の自由度は著しく低下する。つまりムラ社会においては、お互いに挨拶をしないといった選択肢は基本的に認められないのだ。 もし雇用制度がジョブ型で、自身のキャリアは自身で決めるというやり方が定着していた場合、多くの労働者は、自分のスキルを活かせる職場、自身の性格とマッチする社風を持つ職場を探して、活発に転職することになる。 職種によっては挨拶などのコミュニケーションが必須のところもあるだろうし、専門職的な組織の場合、コミュ力はほとんど問われないところもあるだろう。また、同じような業務であっても、体育会系的なノリの会社もあれば、そうではない会社もある。 諸外国では、自身が持っているスキルや、社風などの観点から、皆が自分に合う職場を探していく。最終的には似たような価値観を持つ人物が集まることになり、激しいカルチャーギャップというものは生じにくい。対して日本では望むと望まざるとにかかわらず、同じ組織に所属しなければならないという背景があるからこそ、挨拶の有無やヘッドホンの是非、電話を取る順番といった話が社会問題になる。
カルチャーギャップの議論の終焉
これまでの時代は、大企業を中心に終身雇用が当たり前だったことから、多くの人がそれなりの生活を送ることができたので、カルチャーギャップに関する議論も、牧歌的で微笑ましいものだったとみなすこともできるだろう。 だが筆者は、今後10年の間に、こうしたカルチャーのギャップの議論は急速に萎んでいくと見ている。その理由は、経済界と政府が本格的に日本の雇用制度見直しに乗り出しているからである。 先日、策定された経済財政運営の基本方針(いわゆる骨太の方針)では、日本においてジョブ型雇用を導入する方針が盛り込まれた。ジョブ型雇用となれば、スキルに対して賃金を支払うことになるので、所属に対して賃金を支払うという概念が極めて薄くなり、組織への帰属意識も低下せざるを得ない。 ジョブ型雇用へのシフトは、以前から財界が導入を望んできたものだが、コロナ危機によって一旦、その動きが中断していた。コロナ危機がほぼ収束したことや、日本でもインフレが進み始め、企業の経営環境が厳しくなっていることもあり、財界は本腰を入れてジョブ型雇用へのシフトを進めようとしている。 ジョブ型雇用=容易な解雇、ではないが、ジョブ型雇用への移行を口実に、事実上の解雇を推し進める企業が増えてくる可能性は否定できないだろう。