トヨタ自動車・多木裕史外野手が感謝の思い抱き、今季限りで現役引退 社会人ベストナインを3度獲得
こみ上げてくるものを抑えることはできなかった。今秋の日本選手権。2大会ぶり7度目となる優勝を決めたトヨタ自動車の歓喜の輪で、多木裕史は後輩たちの奮闘に自然と涙がこぼれた。 「自分が試合に出ていた以上にうれしかったというか。若い力で勝つことができた。本当にここ数年で成長して良いチームになり、強くなったなと。ちょっと第三者的な視点で見ていました 今季限りでの現役引退を決意したのは、9月後半だった。今夏の都市対抗前に練習中に左膝を負傷。古傷である首痛も再発するなど、満身創痍の中、黙々とプレーを続けていた。藤原航平監督に自ら申し出ると、「今までありがとう。最後、日本選手権優勝して終わろう」とねぎらいの言葉をかけられた。 法大から2013年に入社。4年目からレギュラーに定着すると、初優勝を遂げた16年の都市対抗では17打数10安打2本塁打の打率・588で首位打者賞に輝いた。その後も主力として17、22年の日本選手権、23年の都市対抗でいずれも優勝に貢献。「ストライクは1球も逃さないという気持ちで打席に立っていました」。地道な練習と入念な事前準備があったからこそ、第一線に立ち続けた12年間。左打席から広角に打ち分ける高い技術を誇り、社会人野球ベストナインを外野手で計3度も受賞した。 栄光に彩られた野球人生へと導いてくれたのは、いずれも香川県の飯山、坂出、高松南で野球部の監督を歴任した父・教雄さんだった。1、2歳からボールに触れる機会を与えられ、小学生の頃は登校前に父子でキャッチボールをするのが日課だった。高校は教雄さんが当時監督を務めていた坂出に進学。親子鷹として濃密な3年間を過ごした。「野球という人生を歩ませてもらった1人です」と感謝の思いを抱く。 実は3年前の21年にも引退が頭をよぎったことがあった。夏頃から原因不明の首痛を発症。一時は日常生活にも支障をきたすほど悪化した。4カ月間は本隊から離れて別メニュー。だが、首脳陣、トレーナーの献身的な支えもあり、「ここで辞めるわけにはいかない」と懸命にリハビリし、復帰へこぎつけた。 「たくさんの方々のおかげで、そこから3年野球を続けることができ、その間で3回も日本一を経験できた。12年という長い間、素晴らしいチームで野球ができたことに、本当に感謝の気持ちでいっぱいです」 大切な家族がいたからこそ、悔いなくやり切ることができた。子育ての傍ら、献身的に支えてくれた妻・唯(ゆい)さん。「遠征とか多い中、本当に大変だったと思う」。トヨタ自動車の黄金期で輝きを放ったバットマンは、感謝の2文字を胸にユニホームを脱ぐ。