「驚異の肉体を持つ91歳」最愛の妻を看取って22年、“世界一の超人”が実践する「一人きりで生きる“老後の戦略”」
やがて、病状が悪化して自宅療養から入院になると、稲田さんは持て余すほどの時間ができた。一人でいると、どんどん気持ちがつらくなっていく。 「結婚生活を振り返って、毎晩帰りが遅かったり、単身赴任で8年間も放っておいたりして、あんまり一緒にいてあげられなかったことをものすごく後悔しているんです。結婚するとき、妻と妻の両親に『絶対に幸せにします』と約束したのに、はたしてそれを守れただろうかって……」 遠い日の誓いが胸に突き刺さった。
■「ひとりの老後」を支えるもの このつらい時間を埋めてくれたのが、やがてトライアスロンデビューにつながるアクアスロン(※スイムとランだけ)レースと、大学時代から続けている登山だった。 「山に助けられました。僕は自然の中にいるのが好きで、山道を無心で登っていくうちに悩みや不安から解放されて、気持ちが癒やされていくんです。なるようにしかならない。できることをがんばろうと前向きになれました」 人生のセカンドステージは既婚・独身に関係なく、「ひとりの老後」に向かっていく日々である。そこにはやはり、夢中になれる何か、趣味があるほうがいいと稲田さんは言う。
現役時代は「仕事一筋」「仕事が趣味」という選択でも構わない。稲田さん自身も仕事人間だった。だが妻の発症、介護、看取りという苦行の年月を自分らしく切り抜けてこられたのは、趣味の登山やトライアスロンのおかげだった。 稲田さんの“人生後半戦”は70歳から、トライアスロンとともに始まった。「パパ、がんばって」と背中を押してくれた妻のお骨は、一緒にいる時間を取り返すように8年間、自宅で保管した後、納骨した。
バイクの練習がてら、毎週、妻のお墓に立ち寄って話しかける。トレーニング日誌の練習ルートには、「ママの墓」と記録する。 ■“人生後半戦”を生き抜く戦略 世界最高齢のアイアンマンとして、世界中に名を轟かせる稲田さんだが、実は「運動の才能にはあまり恵まれていなかった」と苦笑いする。 戦時下だった小学校時代から運動は得意なほうではなかった。 「体操の時間は運動競技というものはなく、すべて軍事訓練。荷物を背中に背負って延々と歩き続ける行軍や、手榴弾のような形をした鉄の塊を投げる投てきの練習ばっかり」