「驚異の肉体を持つ91歳」最愛の妻を看取って22年、“世界一の超人”が実践する「一人きりで生きる“老後の戦略”」
■定年退職後の人生は介護を選択 発症当時も稲田さんは単身赴任中だった。介護保険制度もなかった昭和の時代。稲田さんは少しでも妻のそばにいられるように、自宅に近い千葉の支局に異動させてもらって妻の闘病を支え続け、定年を迎えた。 65歳まで定年を延長する選択もあったが、稲田さんは自宅で療養する妻の介護に専念するため、迷うことなく60歳で退職する。 こうして60歳から妻の在宅介護の日々が始まった。 単身赴任の8年間は自炊していたので、食事作りはもちろん、掃除、洗濯、ごみ出しといった家事全般は苦痛ではなかった。料理教室に通って病人食の作り方を覚えて、妻のために料理をした。自分の身のまわりのことも自分でできる。
その一方で、「自分の給料がいくらなのかも知らなかった」という稲田さんは、退職後、妻がコツコツと貯めた預金や老後に備えた各種の保険などがあることを初めて知る。 「妻も仕事をしていたのに、僕は家のことは全部妻に丸投げしていたんです。40年のサラリーマン生活を全うできたのは、妻が僕に仕事だけをさせてくれたから。感謝しかありませんでした」 自宅介護が始まった頃は比較的病状が安定していて、稲田さんは運動不足を解消するため、近所のスポーツジムに泳ぎにいく余裕もあったし、妻が寝ているときは自室で趣味のギターの弾き語りをするひとときもあった。
「あるとき、妻に『パパ、あの歌はうまいわね』とほめられたこともありました。寝ていると思っていたら、聞こえていたんですね。妻の前では歌ったことは一度もありませんよ。だって、恥ずかしいじゃない(笑)」 しかし、徐々に妻の血小板の数値が下がり続け、帯状疱疹を発症する。 自宅のベッドで皮膚が焼けるような痛みに苦しむ妻を見ながら、稲田さんは無力感に苛まれるようになっていく。痛みを代わってあげられない。どのくらいの痛みなのか、感じることもできない。「痛がっていてかわいそうだ」と思うことしかできない……。