まさか…北の富士が大鵬との優勝を決する一戦で食った「意外な決まり手」と、53年前に日本中が仰天した「ライバルの急死」
軽妙な感じの取り口という記憶
北の富士がなくなった。 北の富士の現役のころの相撲は、首投げの印象が強い。 私が熱心に大相撲の中継を見始めたのは昭和42年(1967)あたりからで、そのときに北の富士勝昭はもう大関だった。 【写真】横綱・照ノ富士が膝につけている「異様な器具」の正体 昭和42年当時の大関は、北の富士と玉乃島(のちの玉の海)、それに豊山の三大関だった。十一月に琴桜(いまの琴櫻の祖父)が新大関に昇進している(当時は新聞など琴桜と書いているのがふつうだった)。 北の富士は、軽妙な感じの取り口で(あくまで小学生時分の記憶によるものだが)、そんなに強い大関という印象はなかった。 早い相撲を取る人で、勝つときはぱぱっと勝ってしまうが、足が止まると押し込まれる。押し込まれると苦し紛れに腕を首に巻き付けて投げようとするが、そんな態勢からの首投げが決まることはない。そのまま押し出されるか転がされてしまう、というシーンが印象に残る、そういう相撲取りだったのだ。 大横綱の大鵬の時代である。大鵬はほんとうに負けなかった。 昭和43年から始まった45連勝もずっと見守っていて、44年春場所に戸田に負けて連勝が止まった一番も見ていた。 ただ、この一番のときもそうだが、大鵬も晩年になると、はたきこみが目立つようになった。あの大横綱がはたきこんで、相手を呼び込んでしまってそのまま土俵を割るという相撲を何回か見たので、「大鵬のはたきこみという悪い癖」も印象に残っている。でも、実見したのはたぶん数番だとおもう。 北の富士の「苦しまぎれの首投げ」というのも似たような印象である。 北の富士が首投げで勝ったという事例を調べてみた。
大関時代2度、横綱時代4度
昭和61年刊行の「古今横綱大事典」という冊子には谷風(実質の最初の横綱)から「新横綱の双羽黒」までの幕内全星取表がのっている。北の富士も当然、のっている。 大関時代の北の富士が、首投げで勝ったというのは二番ある。 昭和44年の1月場所と5月場所、どちらも勝った相手は横綱の柏戸である。 大関と横綱の取り組みだから、1月場所は14日目、3敗の柏戸と4敗の北の富士の取り組みで北の富士が首投げで勝ち。優勝は連勝中の(30連勝から44連勝で全勝の)大鵬。 5月場所は12日目に対戦して、北の富士の首投げで勝ち。優勝は連勝は止まったけどやっぱり大鵬。竜虎が正面から大鵬を寄り切った一番のあった場所である。 このとき柏戸は、北の富士の二度目の首投げで負けて9勝6敗に終わった。翌昭和44年7月場所、三日目に新鋭の朝登に負け、引退した。 北の富士が大関時代に首投げで勝ったのが2回。 横綱になっても何度かある。 昭和45年の7月場所、中日八日目、大麒麟あいてに首投げを決めて7勝目、この場所は13勝で優勝している。 また翌年46年1月場所12日めに、また大麒麟を首投げで転がしている。 46年9月場所2日目に黒姫山、また48年3月場所の5日目に長谷川に、首投げで勝っている。 横綱時代に4度、首投げで勝っている。 負けているのも見つけた。 しかも相手は大鵬。