まさか…北の富士が大鵬との優勝を決する一戦で食った「意外な決まり手」と、53年前に日本中が仰天した「ライバルの急死」
現代っ子横綱と言われたわけ
新横綱になった45年3月場所、同じ横綱だった大鵬と対戦し、どちらも一敗のまま14日めの決戦で、大鵬が追い込まれ北の富士の首に腕を巻き付けて、一か八かの首投げで倒して、そのまま優勝している。これが大鵬幸喜、32回目の優勝、最後の優勝でもあった。 横綱同士、しかも優勝を争ってトップにいる二人の一番で、首投げで決まるのはめずらしい。 首投げというのは、まわしから手を離しているので、劣勢のときの逆転投げ技というところがあって、見ているぶんにはおもしろいのだが、横綱同士の優勝が決まる一番ではちょっと珍しい。 北の富士の首投げで印象に残っているのは、勝ったものではなく、苦しまぎれの負けるやつだったのだが、調べたら勝っているのもあった。癖のようになっていた、という記憶はたぶん間違っていないとおもう。 北の富士が横綱になって強くなってからは、少し印象が違うのだが、大関のころの北の富士は、軽い感じだった。よく言えば(勝つときは)スピーディだし、悪く言えば(負けるときは)バタバタしていた。地に足つけて進んでいるイメージではなく、ぱぱぱぱっと済まして、さ、飲みいこうぜ、というような相撲に見えた。かっこ良さげであり、軽すぎる気配もあった。 爽やかで、現代っ子横綱と言われていた。 現代っ子と言っても昭和17年生まれ、つまり戦時中に誕生した世代だったのだが、明治人から見れば現代っ子だったのだろう。まあ、明治人だって、天保生まれからみれば現代っ子だったわけで、これは遡るときりがない。
横綱に同時昇進した二人
北の富士とライバルとされていたのが、玉の海、大関時代は玉乃島と呼ばれていたのでこちらの名前がなじみある世代なのだが、玉の海は、もう少し落ち着いていた。 玉の海は「つり出し」で勝っている決まり手が目立つ。がっぷり組む相撲が得意だったわけで、そこのところもまた北の富士と違っていた。 玉の海は昭和19年の生まれなので、北の富士の2つ下になる。 ただ入幕は一場所違い、大関昇進も一場所違いで、どちらも北の富士が早かった。 そして、横綱へは二人同時昇進した。 昭和45年と46年の二年12場所のうち、北の富士が6回優勝して、玉の海が4回、大鵬が2回であった。玉の海は強い横綱だったのだが、北の富士にはよく負けていた。 玉の海は横綱になって、風格があった。まさに大横綱への道を歩んでいたと、のちのち語られるのであるが、昭和46年の10月、横綱在位10場所で、急逝した。 大鵬の引退相撲で太刀持ちを務めたあと、前から悪化していた虫垂炎の手術のために入院し、手術は成功して退院する予定だったのだが、急変。急死した。 10月11日月曜日の午前中のことで、そのニュースは日本中をかけめぐった。