「あの言葉がなかったら死んでいた」東日本大震災から13年…住民100人の証言、生死を分けた“避難行動”
2011年3月11日、東日本大震災で大津波が押し寄せ、被災した全国の自治体の中で最も多い約4000人が犠牲になった宮城県石巻市。なぜこれほど多くの人が逃げ遅れてしまったのか。 【映像】慌てて高台へ避難する園児たち(実際の映像)
震災伝承団体が、生き残った住民約100人に当時の避難行動の調査を実施すると、多くの住民に共通する危険な避難行動が浮かび上がってきた。13年経った今、命を守る避難行動を考えた。
住民100人の証言から避難行動を見える化
宮城県石巻市の南浜門脇地区は、住宅が肩を並べるように軒を連ね、約1800世帯、4500人の営みがあった。しかし、高さ7メートルを超える津波がのみ込み、死者・行方不明者は人口の1割以上にも上る545人と甚大な被害をもたらした。
高さ50メートルの高台・日和山は、沿岸からはおよそ700m、歩いて10分ほどで行ける場所で、津波到達までの57分の間に避難できる距離だった。 多くの住民が逃げ遅れた理由を明らかにしようと、震災伝承団体「3.11メモリアルネットワーク」が東北大学と協力し当時の避難行動を調査した。対象はこの地区で暮らしていた住民100人。地震発生時にいた場所やいつ・誰と・どこに逃げたのかを、5年にわたって聞き取りを行った。 この取り組みを始めたきっかけについて、震災伝承団体の中川政治さんは「たくさんの方々が戻ったり、動かなかったりしているけれど、それぞれ必ず事情がある。3月11日だけでなく、次の災害ももしかしたら同じことが起きてしまうのではないかと思い、実際の行動を見える化しようと思った」と語った。
100人の証言を元に避難行動を調査したところ、地震発生から3分後に大津波警報が発表されたが、すぐに高台に向かう人はいなかった。15分後、小学校の教員と児童たちが集団で避難を始める。このころから、徐々に高台に逃げる人が増え始めた。しかし、一向にその場から動かない人や地区の中を行ったり来たりする人も見られた。そして、地震発生から57分後、津波が地区をのみ込んだ。