自ら申し入れた引退「最後でいいかな」 “最終打席”は拒否…1年で終わったヤクルト生活
濱中治氏は2011年、ヤクルトで5試合出場…8月に引退を申し入れた
現役生活に自らピリオドを打った。濱中治氏(野球評論家、関西独立リーグ・和歌山ウェイブスGM)は2010年にオリックスを戦力外となり、ヤクルトへ移籍した。しかし、2011年は5試合の出場で13打数2安打の打率.154、0本塁打、0打点と力を発揮できずじまい。8月には自ら球団に引退を申し入れた。2軍でも持ち味のホームランを1本も打てなかったことが辞める理由のひとつになったという。 【画像】48歳とは思えぬ”驚愕スタイル” 美人女優が青ショーパンで一投「なんつー美しさ」 3月11日に東日本大震災が発生した2011年。プロ野球は4月12日にセ・パ同時開幕となった。ヤクルトは宇部での巨人戦からスタートし、新加入の濱中氏は「3番・左翼」でスタメン出場した。7回表に先頭打者で、そこまでノーヒット投球の巨人先発・東野峻投手から中前打を放つなど4打数1安打とまずまずの“ヤクルトデビュー”だった。だが、チャンスは多くなかった。 その後にスタメンで起用されたのは4打数無安打の翌13日の巨人戦(北九州)と、3打数1安打の17日の横浜戦(神宮)だけ。22日の広島戦(マツダ)は代打で出て左翼守備に就き、1打数無安打1四球。23日の同カードは途中出場で左翼を守り、1打数無安打。27日には登録を抹消された。結局、ヤクルトでの1軍出場はこの5試合だけ。17日の横浜戦の2打席目に山本省吾投手から放った中前打が現役ラストヒットになった。 「センター前への最後のヒットは覚えていますね」と濱中氏は言いながら「あの年の僕は2軍で2回高熱を出して、それぞれ1週間くらい休んだんですよねぇ」と無念そうにも話した。2軍成績は41試合、打率.250、0本塁打、8打点。「8月には球団に『引退します』と言いに行きました」。プロ15年目、33歳での決断だった。「ヤクルトの人には『もう1年やったらどうだ』と言われたんですが、もう気持ちが追いついていなかったのでね」。そして、こう続けた。
2軍でも打てなかったHR「統一球になった年で、ボールも飛ばなくなって…」
「ヤクルトでは2軍でもホームランを打てなかったんですよねぇ。それも辞める理由にはなりました。統一球になった年で、ボールも飛ばなくなって、力がなくなって限界というか、これで最後でいいかなってね。2軍監督の真中(満)さんはすごく気を遣ってくれたんですよ。でも僕のことより次代のヤクルトの選手を育ててほしいとの思いもありました」。 結局、現役ラスト出場は4月23日の広島戦(マツダ)になった。「球団からは10月に最後の打席を設けるという話があったんですが、断りました」という。2011年のヤクルトは最終的には2位だったが、9月までは首位を走っていた。「そんな大事な試合をしている時でしたからね。『僕の1打席なんてもういいです。チームに迷惑はかけたくないし、そこは気にしないでください』とお伝えしました。自分の気持ちの中ですっきりすればいいだけの話なんでね」。 数字を残せずに1年だけのヤクルト生活だったが、移籍してよかったという。「球団自体がものすごくやりやすい環境だな、すごいアットホームだなって思いました。当時の球団社長が一緒にコーヒーを飲もうなんて誘ってくれたり……。僕はヤクルトの雰囲気が一番好きでしたね」。2007年オフに阪神からオリックスにトレード移籍する時はショックだったが、その気持ちも変わった。「タイガース以外の球団を見れたのは僕にとって人生の財産になりました」と言い切った。 プロ通算成績は744試合、打率.268、85本塁打、311打点。一番状態がいい時に右肩故障の不運に見舞われた。それがなければ、数字はもっと伸びたことだろう。そんな中で2006年にはキャリアハイの打率.302、20本塁打、75打点の成績もマークした。「2007年以降は結果を残せませんでしたけど、15年できた。いい経験をさせてもらいました」と濱中氏は話す。輝いた時期はすさまじい打棒だった。“うねり打法”による豪快なホームランは野球ファンを魅了したはずだ。
山口真司 / Shinji Yamaguchi