江戸時代にも90歳を超える高齢者が一定数いた…日本人が知らない「武士の介護休暇」意外な手厚さ
1月13日からは、「朝五時前小水御通」や「暁九時両便御快通」など排せつに関する記述が登場し、この時期から重教は排せつの介助(トイレまでの移動介助)も行っていたと考えられます。その後、1月19日には勘定奉行をはじめ、藩士がぞくぞくと見舞いに駆けつけ、八郎は「今世之御暇乞」(今生のお別れ)をしたり、心得・教戒などを伝えたりします。 この頃になると八郎は寝床から離れられなくなり、1月22日の日記には「依之今日御両便共ニ御床上ニて自分・弥兵衛・久三郎御世話申上」とあり、重教、弥兵衛、そしてこの頃江戸から戻っていた金沢家の跡取りである久三郎の三人兄弟で、大小便の世話をするようになります。26日頃からは、自力で寝返りもできなくなりました。
そして2月3日の日記には、「先日以来御薬ハ不被召上旨被仰聞、御決死之事ニ候得は……」とあり、先日来、八郎は薬を飲もうとせず、死を決したとの記述があります。その上でこの3日に、辞世の詩も作成。5日に八郎は亡くなりました。 ■現代でいうところの「介護休業」も 以上少し長くなりましたが、実際の日記には、いつどんな症状が出たのか、何を食べたのか、大小便はいつしたのか、どんな薬を投与したのか(麝香〔じゃこう〕、モルヒネ、ヒスミット、ラウタなどの薬名も日記中に記載あり)などが、詳細に記述されています。近世期の武士は文章のうまい人が多く、筆まめな人が詳細な介護記録をつけると、現代のプロの介護士が作成するような具体性があります。
なお、重教の兄嫁は舅(しゅうと)の八郎と不仲だったようで、ケアには非協力的だったようです。八郎の容体が悪化した際、兄達は江戸にいたため、結果として沼津にいた重教がケアを担い、兄達が江戸から戻った後も八郎の介護・看取りケアの中心役となっています。 なおケアを行う際、重教や兄弟が手ずから介護をしていたとは思いますが、家で働いている人(下男・下女と呼ばれた人)も多かったと思われ、そうした人たちにあれこれと指図する場合も多分にあったと考えられます。
またこの八郎のケースで一つ注目したいのは、重教が介護をするにあたって、藩に対して「看病引」を願い出ている点です。これは「親の介護をしたいから休ませてください」という、現代でいうところの介護休業のお願いです。沼津藩はこの申し出に対し、すぐに許可を出しています。
﨑井 将之