江戸時代にも90歳を超える高齢者が一定数いた…日本人が知らない「武士の介護休暇」意外な手厚さ
この日記は『水野伊織日記』(伊織は重教の別名)として世に知られていて、1862年(文久2年)から1892年(明治25年)にかけての日々が記録され、幕末維新における沼津藩の動きを知る上で貴重な史料です。その一方、父である金沢八郎が病気で倒れ、介護をし、亡くなるまでの様子について事細かに記されてもいます。そこから当時の武士の介護を読み解けるわけです。 史料は日記形式であり毎日を逐一取り上げると大変なので、いくつかのエピソードを拾ってご紹介しましょう。
■1866年(慶応2年)に起こった異変 まずは日本史上で「薩長同盟が結ばれた年」として知られる1866年(慶応2年)4月23日の出来事に焦点を当てます。この日、水野重教の実父である金沢八郎の身に異変が起こります。このとき八郎は江戸に出府していて、「八幡」に参詣してから家に帰っていつものように酒を飲み、酔っぱらって寝床に入ったのですが、次の日の朝になると、 「言語御渋り諸状不宜旨也」 (言葉をスムーズに話せなくなり、体調全般が良くない)
という体調が優れない状態となり、医師に見せて血の検査などをしたところ、 「是中風再發之徴候也」 (これは中風〔ちゅうぶ〕再発の兆候である) と診断されます。八郎はそれまでも中風を患っていたようなのですが、飲酒がきっかけで再発したわけです。中風とは脳卒中による半身麻痺などの後遺症のことで、現代でも言葉がうまくしゃべれない、体にしびれが出るといった症状はその前兆として知られています。 八郎はその後少しずつ回復しますが、同年の秋頃からまた体調が悪くなったようです。その後八郎は藩から暇(いとま)をもらい、国元で療養生活を送りましたが、年が明けて1867年(慶応3年)の正月4日頃から難治性の吃逆(きつぎゃく〔しゃっくり〕)がひどくなり、薬を投与しても収まらなくなります。7日には医師より、