日本でも8%が“ニュース回避”「シャワーみたいに情報を浴びると自分がなくなる」情報過多時代をどう生きるか
■情報過多時代、オールドメディアの在り方にも変化
元毎日新聞記者で、立命館大学教授の白戸圭一氏は、「ニュースを見ると、つらい気分になる」という感情に寄り添う。「私はアフリカ地域研究が専門で、記者時代には戦争取材で、悲しい現場に多く立ち会った」。 しかしながら、学生については、少し違う考えのようだ。「私が勤める国際関係学部では、ニュースを見ていないと授業が成立しない。親から年間100万円以上も払ってもらって、この学部に来ている以上は、世界の状況を知る必要がある」。 マスメディアには「偏向している」との批判が絶えないが、「すべてのニュースは、報道された時点で、絶対に偏向している」と明言する。「例えば90分の大学講義を取材して、90分丸々流せば報道にはならない。3分の映像や50行の記事にまとめるのがニュースで、そこには選ばれた事実と、そぎ落とされた事実がある」。 あらゆる報道には“偏向”があるとしつつ、その上で「マスメディアしかなかった20~30年前は、世界中の人々は一方的に見させられていた。若年層の知的負荷としても、テレビで親が見ているニュースを横目に、社会の関心を生むことを強いられていた」と振り返る。 しかしスマートフォンなどの普及で、「人生の初期段階から、自分個人と機械との間だけで関係が成立することで、興味関心のあることだけに知識が偏るかもしれない。本人は偏りに気づいていないが、周囲からは『この事だけ詳しい』と評価される人が増えかねない時代だ」と感じているという。 その上で、ニュースは20~30年前には「見るしかない」状況だったが、現在は「見なきゃいけないとは言えない」と、時代の変化に触れつつ考察する。「テレビ局や新聞社では、記者やディレクターが取材したものについて、“ゲートキーパー”を担う人間が『何を報じるべきか』を判断している。複数人が組織的にチェックすることで、事実関係の間違いは少ない」。 ファクトチェックのみならず、ニュースバリューにおいても、時代で状況が異なる。「オールドメディアは『読者が知るべき情報だ』と判断していたが、その基準も社会状況で変化するべきだ。男性が圧倒的な職場では、女性の生理が深刻な問題として認識されて来なかった。報じる側の女性比率が高まり、ニュースの価値観も変化してきている」。 (『ABEMA Prime』より)
ABEMA TIMES編集部