82歳料理家・村上祥子 終戦後に同級生がガリガリでも健康優良児だった私。家にはバターや砂糖もあったが、それで「豊かな食生活」かというと…
82歳の料理家・村上祥子さん。その元気の秘密は、日々の食事と前向きな考え方にありました。手軽に栄養が獲れる家庭料理を目指した「村上流レンチンレシピ」をはじめ、じぶん時間を目いっぱい楽しむための生きるヒントが満載のエッセイ『料理家 村上祥子82歳、じぶん時間の楽しみ方』より一部を抜粋して紹介します。 【書影】82歳、元気の秘密!誰でも簡単で美味しい「レンチン料理の第一人者」の新刊『料理家 村上祥子 82歳、じぶん時間の楽しみ方』 * * * * * * * ◆最初の食の記憶 生まれて初めての食について思い出そうとしましたが、記憶は真っ白です。 何も覚えておりません。 私は、1942(昭和17)年。福岡県若松市で生まれました。疎開先は、福岡県福津市(以前は津屋崎町)。半農半漁の自然豊かな町で、小学6年生半ばまで過ごしました。 父は戦争に召集され、妹が生まれる年に母と祖母と一緒にトラックの荷台に乗って引っ越したと聞いています。 私は2歳でした。 津屋崎町の出のばあやが、大工の棟梁である息子と近所にいて、母は心強かったと聞いています。 当時、日本の食糧事情は、栄養重視の食事とはほど遠く、厳しい状況が続いていました。 そのため、一緒に疎開したねえやは故郷に帰したそうです。 私の小学校1年生の写真は、なぜかほっぺがプクプク、前歯の抜けた口を大きく開けて笑っています。 周囲の同級生はみんなガリガリです。
◆鶏のすき焼きの光景… 家の資産(土地家屋)を管理していた我が家は、働かずとも裕福だったようで、上等な服を着た私は見事な健康優良児でした。 終戦後もどこから入手するのか家にはバターや砂糖がありました。だから栄養は十分に摂取できたのでしょう。 でも豊かな食生活かというと、それはまた別の話です。 私が生まれた後、長女を4歳で失った母は、食べてくれれば十分と、好きなものを存分に与えてくれたのかもしれません。 「8歳のお誕生日、何が欲しい?」と聞かれて、「チーズ!」と元気よく答えたそうです。 甘いお菓子よりもチーズが大好きだったのですね。 チーズを1箱もらった私は、大喜びで妹と分け合って、妹は少しずつ、私は一気に全部食べました。 この家での強烈な食の記憶は、鶏のすき焼きです。 15歳年の離れた九州大学の医学生だった従兄に、母が食料の足しになれば、と、庭で飼っていた鶏を絞めてもらうように頼んだのです。 井戸端にしつらえた石の流し台で、無言で鶏をさばくお兄さんの大きな背中。 水の音、赤い血、お腹から数珠つなぎに取り出される大から小の卵黄…。私は驚きと好奇心で、一心にその様子をみつめていました。 その夜は、 鶏のすき焼き鍋を皆で囲みました。 その味こそ忘れてしまいましたが、その日見た光景は今なお鮮明に覚えています。