治安維持法、戦争景気、大衆文化――戦時下の日本は暗黒だったのか
ウクライナ戦争とガザ紛争が続くなかで、戦後80年を迎える。ウクライナとガザに関係する当事国の人びとは、戦時下、どのように暮らしているのか。メディアが伝える断片的な情報からは全体像がわからない。これらの軍事紛争を対岸の火事として傍観するのではなく、今の戦時下における人びとの生活を想像しながら、日本はどのように関与するかを考えるべきである。 この観点に立って歴史的な想像力をめぐらすと、戦後の平和な80年間よりも戦争が現実だった時代にさかのぼることになろう。2025年は昭和100年でもある。「昭和」が100年続いていると考えると、今は戦争の時代の延長線上にあることが意識される。昭和の戦争は今日に示唆するところがあるだろう。以下では昭和の戦争期を政治・経済・社会・文化の視角から再構成して、そこから何を学ぶことができるのかを明らかにする。
日本=「ファシズム」国家論争
戦前と戦後のちがいは、未だに「戦争とファシズム」対「平和と民主主義」の二項対立図式で理解されがちである。8月15日をめぐるメディアの報道の仕方も、十年一日の如く古い枠組みに依拠していることが多い。 しかし今日の研究水準からすれば、この対立図式は相対化されている。日本近代史研究は、どちらかといえば戦前と戦後の断絶よりも連続の方に関心を向けたからである。 断絶を強調する立場は、戦前の日本を「ファシズム」国家として批判してきた。戦前日本は「ファシズム」国家だったのか。この論争は事実上の決着がついて久しい。戦前日本を「ファシズム」国家と規定する論法の難点は、独裁者の不在だった。ドイツのヒトラー、イタリアのムッソリーニに比肩する日本の独裁者は誰か。名指しするのはむずかしい。日本は「軍部独裁」だったといえなくもない。しかし軍部内閣はいずれも短命に終わっている。林銑十郎陸軍大将の内閣はわずか4ヵ月である。以下、阿部信行・米内光政の両内閣は半年前後、比較的長い東條英機内閣といえども3年に満たない。小磯國昭内閣は1年も持たなかった。軍部内閣が連続したのでもなかった。軍部内閣の間に非軍部内閣がいくつか成立している。短命で非連続の軍部内閣をもって「軍部独裁」と呼ぶのには躊躇する。 他方で海外からみれば、ヒトラーやムッソリーニ並みの日本の「独裁者」は天皇だ、そのような理解が今も残っている。ウクライナ戦争が始まってしばらくの頃のことである。ロシアのプーチン大統領を「独裁者」と非難するウクライナのプロパガンダにおいて、昭和天皇がヒトラーやムッソリーニと同列の扱いだったことは記憶に新しい。 天皇は「独裁者」だったのか。大日本帝国憲法の構造を知れば、誤解であることがわかる。伊藤博文ら帝国憲法の制定者たちは、この日が来るのを予見していたかのように、この憲法に天皇親政の否定と天皇の無答責性を埋め込んだ。 たとえば帝国憲法の定めるところによって、大権の行使をとおして、天皇が開戦を決定したとする。戦争は勝つとは限らない。負けたらどうなるか。天皇に直接、責任が及ぶ。そうならないように、帝国憲法下では天皇親政ではなく、天皇大権の行使を国家機関が代行する。天皇大権に優劣はない。統帥大権と外交大権は同等である。このままでは大権が相互に牽制し合って国家意思の決定はできない。そこで藩閥内閣が政治を動かすことになった。時間の経過とともに、藩閥は自然消滅する。代わりに元老政治となる。元老政治もいつまでも続くことはない。代わりに国家の意思決定をおこなうのは政党内閣になった。こうして帝国憲法下でも政党政治が機能するようになった。以上は帝国憲法に関する常識的な理解である。 他方で天皇は立憲君主から逸脱して、具体的な意思決定をおこなったのではないか、として大元帥としての天皇の戦争指導を主題とする研究もある。あるいは戦争終結が「聖断」によるものであれば、開戦を回避することもできたのではないか。そのような疑問もある。 昭和天皇は、1921年に皇太子として約半年、訪欧している。その際にイギリスにおいて立憲君主とは何か、重要な示唆を得るところがあった。天皇にとって、模範国イギリスのように日本も政党内閣が政治をおこなう立憲君主国でなければならなかった。 原敬の立憲政友会内閣の成立によって本格的な政党内閣の時代が始まる。立憲政友会と立憲民政党(憲政会)の二大政党制が確立する。天皇は立憲君主としてふるまうことができた。しかし政党内閣の崩壊後、日本は意思決定の機能不全に陥る。やむを得ず天皇が意思決定の前面に出るようになる。それでも、天皇の意思どおりにはならなかった。天皇が独裁者だったとすれば、開戦も終戦も意のままになったはずだ。実際にはそうはならなかった。日本は「ファシズム」国ではなく、帝国憲法体制が崩壊に向かっている国だった。