天才は天才をどう見ていたのか? 『百年の孤独』の作者ガルシア=マルケスを安部公房が語る 「一世紀に一人、二人というレベルの作家」
「文庫化されると世界が滅びる」と噂され、発売後も話題騒然の『百年の孤独』。作者は魔術的リアリズムの旗手として数々の作家に多大な影響を与えたガルシア=マルケスだ。 そのマルケスと『百年の孤独』について、日本のみならず海外でも高く評価される作家・安部公房が語った貴重な談話がある。1982年、ノーベル文学賞を受賞したマルケスを、日本文学史に輝く天才作家は、どうみていたのか? 安部公房生誕100年を記念して、新潮社から8月28日に刊行される『死に急ぐ鯨たち・もぐら日記』に収録されたその談話「地球儀に住むガルシア・マルケス」を全文公開する。 *** マルケスについて、すでにノーベル賞を受けてしまった今となっては、あらためて僕がなにか言う必要もないような気もするけど。これまでたまっていた言いたいことを一応棚ざらいするくらいのつもりで……。ところで、どういうふうに話をもっていったらいいのかな。皆さんがマルケスについてどの程度知っているかによって話し方も変ってくるわけで。まあ適当に、ほどほどに知らないということで話しましょうか。ほどほどに知らないと言っても、さほど厭味にならないでしょう。
マルケスがノーベル賞もらった前の年、カネッティがもらっているんだけど、実はカネッティという人、僕はノーベル賞もらうまで知らなかった。また変った人がノーベル賞をもらったのか、という程度。ところが法政大学出版局からちゃんと全集が出ているんだ。僕はかなり読書家をもって任じているほうで、それも人が読まない変った本を発見して読むほうです。その僕でさえ知らなかった。あわてて読んでみたわけです。今日はカネッティの話をする予定じゃないから簡単にすませますが、これが大変な作家なんだ。ノーベル賞委員会というのもけっこう見識があるなあと感心したくらいです。同時に法政大学出版局の見識にも頭を下げました。そして知らなかった自分を恥じた。おそらく皆さんの九割九分も知らないんじゃないか。ノーベル賞もらったあとでもね。その証拠にいぜんとして売れないらしい。それで、なんとかしたいと思ってNHKのテレビに出て宣伝してみたわけです。これほどの作家を知らないというのは恥ずかしいことだし、不幸なことだというようなことを話してみた。多少は効果があるかなと思ったのだけど、あとで聞いてみたら、一〇〇〇部ぐらいしか伸びなかったらしい。けっきょく日本の読者は事大主義なのかな、たぶん週刊誌レベルで話題にならないとだめなんだね。 この事大主義がマルケスの場合についてもある程度言えるように思う。マルケスの『百年の孤独』が翻訳されたのはもうかなり以前のことなんです。実は僕が『百年の孤独』を知ったいきさつ、これもちょっと恥ずかしい話なんだ。ドナルド・キーンさんから「『百年の孤独』を読んだか」と聞かれ「知らない」と答えると、「とんでもないことだ。これはあなたが読むために書かれたような小説だからぜひ読みなさい」と教えられた。「僕は英語読めない」と言うと、「冗談じゃないよ、翻訳があるじゃない」。あわてて新潮社に電話して手に入れました。読んで仰天してしまった。これほどの作品を、なぜ知らずにすませてしまったのだろう。もしかするとこれは一世紀に一人、二人というレベルの作家じゃないか。そこで新潮社に、「これほどの作家を出しておいて全然広告しないというのはなにごとだ」と言うと、「いや、広告しました」「見たことないよ」「いや、たしかにしている」というようなわけです。これはまあずいぶん前の話で、その後「海」という雑誌なんかが、ラテン・アメリカ文学に注目しはじめて、いろいろ短編の翻訳なんかも出るようになってきた。しかし、あくまでも一部の人の関心をひいただけで、カネッティよりはましという程度ですね。しかも知られた分だけ、誤解もひろまってきたような心配をぬぐいきれない。マルケスについて新聞などに書かれるのを見ると、もっぱらラテン・アメリカ作家、というふうに紹介されている。たしかにラテン・アメリカ作家にはちがいない。コロンビア出身の作家だからね。それにこのところ、ラテン・アメリカ文学を論ずるのは一種の流行です。ボルヘス、カルペンティエール、ジョサと読むのか、リョサと読むのか、リョサが正しいという説もありますが、まあどっちでもいいでしょう。こうした作家たちはこのところ毎年ノーベル賞の有力候補に名をつらねていたらしい。だからと言って、ひっくるめてラテン・アメリカ文学と言って済ませてしまえるものかどうか、僕は反対なんです。そういう見かたでマルケスをとらえると間違えるような気がする。マルケスとジョサでは全然レベルが違うような気がする。 もうかなり昔のことですが、アメリカの出版社クノップあたりが中心になって、黒人文学を大きくクローズアップした時期がある。それと並行してユダヤ系作家にも力を入れた。そのあと、次は中南米、とクノップの編集長が言っていたのが今から十何年か前。その頃からアメリカは中南米作家に注目しはじめていた。ところで、それに先行する黒人文学とユダヤ系文学のブーム、この両者のあいだには似ているようでいて本質的な違いがあった。黒人文学のほうはブームが終ったとたんにひどく影が薄くなってしまった。ところが逆にユダヤ系の文学のほうは、いまさらユダヤ系と括弧をつけるまでもない、アメリカ文学の主流の一つになってしまったわけです。すると、アメリカでの中南米文学ブームはどっちのタイプだと考えるべきだろうか。いずれにしても動機はコマーシャリズムかもしれない、アメリカの出版社は大資本ですからね。中南米文学は黒人文学のような広がりかたをするのか、ユダヤ系文学のような広がりかたをするのか、という問題ね。僕の意見を言ってしまうと、中南米のある種の作家は、ちょうど黒入作家が評価されたような評価のされかたで終ってしまうだろう、しかし別のグループの作家はユダヤ系作家に似た立場を確保するだろう。一時のブームでは終らないということですね。とくにガルシア・マルケスは、一部のユダヤ系作家がユダヤ系という括弧をとっぱらってしまったのと同じように、中南米という括弧をとっぱらってしまえる作家じゃないかと思う。はっきり言ってジョサという人はそれほどじゃない。この違いは重要です。ちょっと極端な言い方かもしれないけど、多少極端に言わないとピンとこないだろうから。