【阪神 火の玉ルーキーズ】ドラ3・木下里都 体幹トレにより投手転向わずか6年で最速156㌔
スポニチでは「火の玉ルーキーズ」と題し、阪神が今秋ドラフト会議で指名した9選手が歩んできた足跡を連載する。3位・木下里都投手(23=KMGホールディングス)は福岡舞鶴高時代まで遊撃手だったが、福岡大1年時に一念発起して投手を始め、わずか6年間で最速156キロ右腕へと成長。その裏には大学4年時に出合った体幹トレーニングと、努力の日々があった。 里都は、遅咲きだった。福岡大では3年秋まで公式戦わずか3登板。大学4年と社会人2年間のあわせて3年間で結果を出し、プロの舞台へ、のし上がった。夢をつかめたのは、最速156キロの直球に、ひたすら磨きをかけ続けたからだった。 幼少期から速球派の片りんを見せていた。小学校でのソフトボール投げでは5、6年時に2年連続で校内1位を獲得。地肩の強さに加え、小学1年で野球を始めて以降は毎朝、父・忠司さんと登校前のランニング1時間を日課としており、下半身が鍛えられていた。母・美佳さんは「朝から準備で騒がしかったですね。私が里都を起こす係でした」と目を細めつつ、当時に思いをはせた。剛腕・里都の原点と言えた。 だが投手としてのキャリアをスタートさせたのは遅く、大学入学後だった。福岡舞鶴高までは遊撃手も、大学進学にあたり「上に行くには投手しかない」と監督に投手転向を直訴。投手の練習をしたことはなかったが、いきなり1年時に147キロをマークし、素材の良さをアピールした。しかし大学投手陣にライバルが多く、登板機会に恵まれなかった。 「大学3年までは正直、野球が楽しくなかった。練習に本気で取り組めていなかった」 そんな時、出合ったのが体幹トレーニングだった。4年時に「もう遅いかもしれないけど、大学最後の年くらい本気でやろう」と一念発起。野球部をサポートしていた「オーセルトレーニングジム」に個別で通い始めた。「出力を出すための筋力はすでにあった。あとは、それを安定して発揮できるバランス力が必要だったので、体幹をメインにやってもらいました」と小野幹央トレーナー。午後9時の大学の全体練習終了後、ジムで1~2時間、汗を流す日々を過ごした。「このままじゃダメだと思っていた。とにかく野球だけを必死にやっていました」。帰宅は午前0時近くになる日もあった。 成果は如実に、数字へと表れた。1年時の147キロのまま止まっていた球速が、4年秋には150キロを計測。4年春から主戦投手の一角を占め、全日本大学野球選手権では準々決勝の上武大戦で5回無失点と好投。社会人KMGホールディングス入社への道を切り開いた。社会人でもジム通いを継続して成長を続け、1年目に152キロを計測。そして今年の都市対抗・日本製紙石巻戦で156キロをマークしたことで、今度はプロへの道が眼前に開けた。 だが、まだゴールではない。「自分がナンバーワンの速球を投げる選手になりたい」と“日本最速男”を目標に掲げ、その背中を押すように小野トレーナーは「彼の球速はまだ上がる」と証言する。プロ野球最速166キロ、日本投手最速165キロも、決して実現不可能な数値ではない。投手を始めてまだ6年。里都には、伸びしろしかない。(松本 航亮) ◇木下 里都(きのした・りと)2001年(平13)1月27日生まれ、福岡県福岡市出身の23歳。小学1年から野球を始め、中学では白龍ベースボールクラブ所属。福岡舞鶴高では1年から背番号6で遊撃手のレギュラー。福岡大1年時に投手転向。KMGホールディングスでは2年目に都市対抗出場。50メートル走6秒0、遠投120メートル。1メートル83、90キロ。右投げ右打ち。