寝たきり社長の働き方改革(2)人工呼吸器が与えてくれた人生の“延長戦”
筆者が患っている「脊髄性筋萎縮症(SMA)」 という病気は、10万人に1人の難病だと言われている。筋肉がどんどん萎縮してしまい、いずれ介助が必要になる。効果的な治療法はまだ見つかっていない。 SMAだと診断されたのは、生後10ヶ月のときだった。医師は両親に「余命は5年から、長くても10年でしょう」と告げた。
それは、いずれ呼吸器系に大きな影響を及ぼし、自発呼吸が弱いことで肺炎になったり合併症を引き起こしたりし、その結果、命を落とす危険性があることを意味していた。 医師の宣告を聞いた両親は頭の中が真っ白になり、その日の病院の帰り道のことは全く憶えていないと言う。 それから、小学校、中学校、高校は、名古屋にある養護学校(現在の特別支援学校)で過ごした。幼少期、少年期は電動車椅子に座って過ごすことも多かったが、高校生になる頃には学校でもほとんどベッドで寝たきりになっていた。今では、動くのは両手の親指が数センチという第1種1級の重度身体障がい者だ。 医師の言う通り、5年から10年の余命だったとすれば、当然、高校にも行けていないし、今のように会社を起こすことも、この連載を執筆することもできていなかった。これには転機があった。 小学校4年生だったときのある夜、筆者は息が苦しくなり、母にそのことを伝えた。 「息苦しくて寝れないんだ」 夜になると、体が呼吸を忘れてしまい、苦しくなって目が覚めてしまうのだった。母としては「ついに来たか」という感じだっただろう。 「これまで当たり前に生活していて、日中だって苦しそうじゃないのに……。ここで人工呼吸器が必要になって、いずれは24時間人工呼吸器をはめていなければならない、そんな生活になってしまう……」。母はそう恐れたそうだ。 母はこわばった表情で「病院に行こう」と言い、僕を名古屋の大学病院に連れて行った。当時は、自分の病気についてまだ認識していなかった。いつも通っている診療所ではなく、大きな病院に連れて行かれたことで、いつもと様子が違うなと勘付いていた。 両親と医師がどのような話をしたのかは分からないが、主治医からひとつの提案があった。 「夜間に人工呼吸器を使ってみないかな。それなら呼吸が楽になるよ」