秀忠・家光を不快にさせた京極忠高の「不義理」
■幕府における京極家の価値 京極家は幕府を開いたばかりの徳川家にとって、価値のある存在でした。 近江源氏の流れを組み、室町幕府の侍所で頭人を務めた四職の家柄である京極家を従える事は、内外に徳川幕府の正統性を知らしめる効果がありました。 さらに、このような家格の高さによる評価だけでなく、関ヶ原の戦いで西軍から東軍へと寝返り大津城で籠城し、毛利元康や立花宗茂たちを足止めし、東軍勝利へと導いた功績も認められています。 その結果として家康の信用を勝ち取り、若狭一国を与えられて国主へと返り咲きました。 また、高次の妻常高院を通じて、豊臣家と徳川家の仲介役を担うこともできる貴重な存在でもありました。さらに忠高は、秀忠の四女初姫を妻に迎えており、徳川家と直接の縁戚関係を持ちます。 実際に大坂の冬の陣での講和交渉は、忠高の陣内で行われました。忠高は夏の陣で武功を挙げ、越前敦賀を戦後に加増されるなど、徳川家中での評価が高まり、先述のように1634年には出雲隠岐26万石に加増転封となっています。 ■忠高の徳川家への「不義理」 京極家が重用された要因の一つとして、義母常高院の存在もありましたが、2代将軍秀忠の娘初姫を忠高の正室としていた事があります。3代将軍家光とは義兄弟であり、出雲隠岐2ヶ国を任されている点からも、徳川家を藩屏として将軍家を支えることを期待されていたと思われます。 ただ、忠高と初姫の仲は良くなかったらしく、影で妻の悪口を言うなど蔑(ないがし)ろにする事が多かったようです。二人の間に子どもができなかった事も、夫婦仲に影響していた可能性が考えられます。 極めつけは初姫の臨終の間際に、忠高はわざわざ相撲見物に出かけるなど、あからさまに「不義理」とも言える態度を取っていました。 一方で、秀忠も初姫の葬儀は徳川家主導で行い、忠高の立ち合いを拒否するなど関係性は不穏になりつつありました。但し、秀忠や義母常高院の存命中は問題視されなかったようで、二人の死後もしばらく評価は変わらなかったのか、出雲隠岐へ加増転封されています。 しかし、初姫との間に子が無かったため、忠高が事前に養子高和を跡継ぎに立てようとしたところ、家光および幕府は認めなかったようです。高和が幼少でもなく、忠高生存中の申請だったため、幕府側に何かしらの意図があったように考えられます。 そのため、忠高の死去後に京極家は無嗣断絶により改易されそうになりますが、高次の功績により大幅な減転封に留まります。 ■名門で功績ある京極家の価値 家康や秀忠のような幕府の創業の時期においては、京極家の価値は非常に高いものがありました。しかし、その評価には徳川家と縁戚関係にあることも重要な要素に含まれていたと思います。 ただ、忠高はその点をあまり認識できていなかったのかもしれません。 現代でも、学閥や経歴によって引き立てられているのに、自分の実績が高い評価を生んでいると過信して、上司や先輩に「不義理」とも取れる対応を続け、数年後に痛いしっぺ返しを喰らう例は多々あります。 もし、忠高が初姫を丁重に扱っていれば、養子も認められ出雲京極家として幕末まで存続していた可能性はあります。 ちなみに、京極家の丸亀藩は戊辰戦争では土佐藩と共に四国鎮撫を担い、高松藩の降伏を斡旋するなど尊王派として活動しています。
森岡 健司